最新メッセージ |
2025年6月号
「扉を開く勇気」
~見よ、わたしは戸口に立って、たたいている~(ヨハネの黙示録3章20節)
来たる7月5日、九州教区では12年半ぶりとなる主教按手式が行われます。
式では主教被選者の頭に主教たちの手が置かれます。
思い返せば私も一昨年の7月、主教と司祭たちの手が置かれ、司祭按手の恵みに与りました。
人の頭に手を置くことは、聖霊の賜物を求める祈りであり、病気を癒す、祝福を与える、特別な任務に選び出すなどの意味があります。
教会暦が聖霊降臨の期節へ移行する今、教区に新たな主教座聖堂が完成し、まもなく新たな教区主教が誕生するのは、聖霊の恵みに他なりません。
そしてさらに願い求めたいのは聖職の後継者です。
聖職不足はずっと以前からの課題ですが、現在7名の現役聖職で20拠点および関連施設との関わりを分担する状況です。
単に人数の問題ではなく、混乱した社会情勢の中で、命や人権が大切にされる神の国実現の働き手として聖職はますます必要とされていると感じます。
そのため、皆さんに積極的に関わっていただきたいのです。
私自身の経験から語ると、「聖職への道」が頭の片隅にチラチラと現れては消え、現れては消え・・を繰り返している人はきっといます。
神様からの呼びかけをうっすらと聞きつつ、でも「明確な召命感がない」「私にはそんな能力はない」「今の仕事を手放せない」「この年齢で今さら無理」「高齢の親が心配」など、頭のチラチラをかき消す理由は次々に挙げられます。
そのような人にイエス様は語ります。
『あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐きだそうとしている』(黙3:15-16)。
私自身もそうでしたが、教区の窮状を知りつつ、また召命を感じつつも、現在の安定した生活と、ほどよく居心地のいい教会生活に留まろうとするのは、イエス様いわく「なまぬるい」のでしょう。
聖職として神と人とに仕える人生は、今有る何かを失う、何かを諦めることになっても、それ以上の恵みと喜びが返ってくると信じます。
勇気を出して飛び込み、主にすべてをお任せしてはどうでしょうか。
皆さんは「いつか誰か聖職を志すだろう」「どこかの教会から志願者が出るだろう」と他人事になっていませんか。
もし「この人こそ」と願う人がいたら、そっと声をかけて下さい。
その声は、その人にとって迷いが決断へ変わる強い追い風となります。
声かけができなくても、ぜひ篤い真剣な祈りを捧げ続けて下さい。
主は耳を傾けて下さるはずです。
イエス様はあなたの心の外からノックしています。
その音を聞きながらじっと押し黙る人を主は喜ばれません。
主がどんな思いでノックしているのか、御声を聞き、扉を開いて下さい。
教区中に聖霊の風が吹き、皆が一丸となって祈り、主の召し出しに応える人が与えられますように。
そして頭に手を置かれ、聖霊が満ち満ちて力強い宣教者が次々に生まれますように、諦めず祈り続けましょう。
司祭 マグダラのマリヤ 島 優子 |
2025年5月号
「聖霊を聴こうと跡を視る」
ぞわぞわと膨らみ蓆(むしろ)を黙って延べ、消える桜は一年の継ぎ目か。
〈今まで〉がどうしようもなく終わっていく。
時を留められたらと願わないだろうか。
虚空(こくう)へとほどけ、また地面で輪になる花の残骸を、今隣りにいて一緒に見送る人はいつまでいてくれるのだろう?
四季は繰り返しだけれど、反復というのは〈同じことの繰り返し〉だ。
本当に〈同じ〉か?
すっかり何から何まで?…違う。
違いに目を瞑(つむ)らなくては繰り返しなんて呼べない。
キリスト教は直線状の時間を持つ。
古来からキリスト教の地域でも日本でも、教会暦と並行した四季の循環を生きているに違いない。
分けても田畑や果樹のようには収穫をもたらさないウタカタ(泡)の花が見せるホコロビを、ことに惜しんで仰ぐのは、日本のこの桜の下をいく度も通り抜けたものの特徴である気がする。
今年も現れた花影に思わず知らず昨春と重ね合わせ、いなくなってしまったあの人も…あの人も…。
時間は止められないんだと、今更ながら立ちすくんでいる。
年降るごとに、年齢を重ねるごとに、一年の継ぎ目の段差は明らかになる。
ヒトをつまずかせる年毎違う春、違う花影。
復活日前後の期節に風が花弁をさらって身にまとうのは、「私はここ」と声を視せるためかと思う。
地上での生命を終える前イエス様からの切なる思い。約束してくださった通り聖霊はヒトの周りに在るけれど…花弁を載せてくるーりひらーり緩慢を装うものを、私達は視線でも指先でも捉えられない。
通り過ぎた後姿しか視られないのは、モーセに表された主の姿に似る。
精出して集めたところで花弁に主がおられる筈もなく直に色褪(あ)せる。
聖霊の風は囁(ささや)きでも轟(とどろ)きでも私達には聞こえない。
炎の形をした舌(使2章)であれ、イエスが直に与えた息(ヨハ20章)であれ、使徒達は視て受け留めただろう。
今私達にはソレだ、と示されることがない。
極東の信者を主は特に不憫(ふびん)がられたか、列島の春、南から順に湧き上がる泡(あわ)の群を用いてヒトに風を視せよと桜樹が生かされているようだ。
冬は枯木立、仰がれもせず寒さから花弁を守って固く納めている。
イエスがヒトへの愛ゆえに忍んだ御(み)苦しみの功を真似るか。
姿のない風の弁護者はヒトの指では開かれない花弁を呼び覚まし、花の色で語る。
神のひとり子を冥府(よみ)の暗さに追い遣(や)った、弱く卑怯な私達へも風は送られる。
もはや瞼(まぶた)を瞑(つむ)って済ませられない程、自分も年毎喪(うしな)うものは増えて来た。
自身もいずれ朽(く)ちる土塊(つちくれ)でありながら、喪(うしな)った人が、モノがどこにいる(又、在る)かと花弁の風を見送るのは未熟さだろう。
「聖霊が…わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハ14:26)
全ては思い起こせなくとも、喪失や滅び以上にそれが「僅(わず)かずつでも主に自身を明け渡し、生きよ」と聞こえるのは、いつか主に委ねる謙遜をまことに学んだ後だろう。
司祭 セシリア 塚本 祐子
2025年4月号
「悲喜交々」
「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。」(マタイ28:10)
イエス・キリストが「復活した」と言う、驚きの出来事が聖書に出てくる。
「復活」は、「死んだのに生きている」と言う,奇跡的な出来事を指して言われる。
十字架で亡くなられたイエス様の墓に赴いた女性たちは、天使からイエスが復活されたことを告げられる。
深い悲しみの中での思いもかけない知らせに驚き、喜ぶ彼女たちの思いが伝わってくる。
人は「限りある命」を生きるのだから、必ず「別れのとき」が訪れる。
もし「信じることができたら」、死を恐れることなく生きることができるだろう。
わたしはまだ「死んだことが一度もない」ので、これは「信じていること」ながら、残念ながら、経験したことではない。
でも、信じられたら「良い人生」を生きられる」だろう。
なぜなら、聖書には,イエスを信じる者が,イエスと同じ「復活の命」に与ることができると記されています。
もちろん、私もイエス様を信じる人間として、これからの人生を過ごしていきたいのだが、退職の年を得て、体も、頭も、思うような動きも「冴え」も無く、いつまで今のようにお仕えすることができるのか分からない。そんな時に、あるお話を聞く機会があった。
「馬毛島」(まげしま)と言う島の話しである。
鉄砲伝来の地、鹿児島県種子島の西10キロにあるこの島に、「自衛隊基地」と「米軍空母艦載機発着訓練施設」を造る計画が進められている。
全く違う状況なのに、話しを聞きながら、今住んでいる我が家(我が教会)を思い出した。
1988年に鉄道路線が廃線となってから、大口の過疎化は極端に進んだ。
馬毛島のお話を聞きながら、何故思い出したのかは、本当のところは「分からない」けれど,「故郷」と言う事ではないだろうか?
「故郷」は、自分の生まれた場所を指すと同時に、大切な日常を、「喜び」につけ「悲しみ」につけ過ごす場所を指していると思う。
今のわたしにとって「大口」は「故郷」である。「喜び」につけ「悲しみ」につけ、この場所が「わたしの全て」を受け止めてくれる。
冒頭の聖書の言葉は、復活されたイエス様に会えるのは「ガリラヤ」である、と天使は告げている。
わたしの「悲喜交々」を全て受け止めてくれる場所こそ、復活のイエス様の指し示される「ガリラヤ」ではないだろうか。
人々の「悲喜」を引き受けて、共に歩んでくださるイエス様を感じるからこそ、わたしは「復活の命」を信じられる。
たとえ「死ぬのが怖い」と泣き叫ぶ自分が、この先の人生に現れようと、わたしは「復活の命」を信じる。
ダビデ司祭 中野准之
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