[巻頭言]

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最新メッセージ

2025年4月号

 「悲喜交々」

「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。」(マタイ28:10)

イエス・キリストが「復活した」と言う、驚きの出来事が聖書に出てくる。
「復活」は、「死んだのに生きている」と言う,奇跡的な出来事を指して言われる。
十字架で亡くなられたイエス様の墓に赴いた女性たちは、天使からイエスが復活されたことを告げられる。
深い悲しみの中での思いもかけない知らせに驚き、喜ぶ彼女たちの思いが伝わってくる。
人は「限りある命」を生きるのだから、必ず「別れのとき」が訪れる。
もし「信じることができたら」、死を恐れることなく生きることができるだろう。
わたしはまだ「死んだことが一度もない」ので、これは「信じていること」ながら、残念ながら、経験したことではない。
でも、信じられたら「良い人生」を生きられる」だろう。
なぜなら、聖書には,イエスを信じる者が,イエスと同じ「復活の命」に与ることができると記されています。

 もちろん、私もイエス様を信じる人間として、これからの人生を過ごしていきたいのだが、退職の年を得て、体も、頭も、思うような動きも「冴え」も無く、いつまで今のようにお仕えすることができるのか分からない。そんな時に、あるお話を聞く機会があった。

 「馬毛島」(まげしま)と言う島の話しである。
鉄砲伝来の地、鹿児島県種子島の西10キロにあるこの島に、「自衛隊基地」と「米軍空母艦載機発着訓練施設」を造る計画が進められている。
全く違う状況なのに、話しを聞きながら、今住んでいる我が家(我が教会)を思い出した。
1988年に鉄道路線が廃線となってから、大口の過疎化は極端に進んだ。
馬毛島のお話を聞きながら、何故思い出したのかは、本当のところは「分からない」けれど,「故郷」と言う事ではないだろうか?
「故郷」は、自分の生まれた場所を指すと同時に、大切な日常を、「喜び」につけ「悲しみ」につけ過ごす場所を指していると思う。
今のわたしにとって「大口」は「故郷」である。「喜び」につけ「悲しみ」につけ、この場所が「わたしの全て」を受け止めてくれる。

冒頭の聖書の言葉は、復活されたイエス様に会えるのは「ガリラヤ」である、と天使は告げている。
わたしの「悲喜交々」を全て受け止めてくれる場所こそ、復活のイエス様の指し示される「ガリラヤ」ではないだろうか。

 人々の「悲喜」を引き受けて、共に歩んでくださるイエス様を感じるからこそ、わたしは「復活の命」を信じられる。
たとえ「死ぬのが怖い」と泣き叫ぶ自分が、この先の人生に現れようと、わたしは「復活の命」を信じる。

ダビデ司祭 中野准之


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