2001年12月号

12月号のはばたくでは「土の器」はお休みでしたが、教区報巻頭に五十嵐主教の文章が掲載されましたのでそちらを紹介いたします。
「光は暗闇の中に輝いている」
 主教ガブリエル五十嵐正司
ニューヨークおよびワシントンの同時テロ事件にはただただ驚くばかりでした。あのようなテロをよくも発想したものだと驚き、また計画した者、それを実行した者の心を想像するときに悲しい、寂しい、冷たい、殺伐とした思いにさせられます。それに対しての報復行為に対しても、同じ思いにならざるを得ません。
 テロの被害者の恐怖と怒り、絶望と無念さを想像するときに、テロ行為の赦されざる行いに憤りを覚えます。
 米国にいる子供が親に 「神様がどうして、このようなことをやめさせないの」と質問したという話を聞きました。
 残念なことに神様に失望してしまう程の残酷な出来事は次から次へと起きているのが事実です。
 イエス様がお生まれになったときに、ヘロデ王によって殺された幼子を思います。あまりのことに親たちは「慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」とマタイの福音書二章十八節で記されています程の悲しみと残酷さです。
 しかしこのような暗闇の中に、共に生きる者として 来てくださり、力を失った者に再び生きる力を与えられたのが主イエスではないでしょうか。 同時テロ事件では教会が様々な働きにより、多くの人を励まし、また方向性を示してきました。
 テロ事件に関連してー人のフランシスコ会の司祭が死んだと聞いています。ジャッジ司祭はニューヨークの消防署付きのチャプレンでした。テロ事件の際には、消防車に乗って現場に行き、亡くなった人、亡くなりかけている人に病者の塗油を授けていたそうです。その時近くで働く消防士の上に女性がー人飛び降りてきて、その消防士にぶつかり、消防士と女性は亡くなりました。ジャッジ司祭はこの二人のためにも祈っていたのですが、その時に瓦磯が落ちてきて同司祭も亡くなりました。
 このような危険な所へ、キリストと共に司祭が入り込んでいた。地獄のような現場に、救いが無いような状況の中に司祭がいた。この司祭の働きは「暗闇の中に光を見出せた」時であったとのことです。  また貿易センター・ビルの真ん前に建てられている聖パウロ礼拝堂は、奇跡的に崩壊することなく残ることができました。ブッシュ大統領が被災場所に来る正午に教会の鐘をならそうと願った司祭は、教会の人に頼みました。そこで彼は傍に落ちている鉄棒を手に取り、ほこりまみれになっている鐘楼に這いつくばってやっとの思いで昇りました。正午になって彼は思いっきり鉄棒で鐘を十数回ならしたところ、救助作業をしていた消防士、警察官、ボランティアたちが帽子を脱いで、祈りをささげたそうです。
 礼拝堂の鐘の音は「暗闇の中に光を見る」出来事であったとニューヨーク聖三一教会(同礼拝堂の管理教会)の司祭は語り、人々を励ましていました。
 主イエスの誕生はまさに暗闇の中に共に生きて希望と力となってくださるインマヌヌル(神は共にいてくださる)の恵みです。


2001年11月号

主教館は福岡市の南にある油山の麓にあります。朝起きて山を眺めてから事務所へ行き、仕事が終わって主教館に帰るときには油山に向かって車を走らせ、山が近くになるに従い家に帰ってきた思いになります。

主教館の前は水田になっています。水田を見ていますと一年の変化を感じさせられます。田植えの時期。稲に花が咲きその香りを放つとき、稲がたわわに実をつけ収穫の時を告げる香りを放つとき。カエルの合唱のとき、それが終わって、秋の虫の合唱のとき。

都会にいては感じることのできなかったこの小さな変化を快く味わっています。

小さな変化ですが、変化は確実に、目に、鼻に知らされてきます。意識しなければ見過ごしてしまう変化ですが、確かに表に現れているのですね。

わたしはこのことを思いながら預言者エリヤに主なる神が現れたときの聖書の記事を思い起こしました。列王記上十九章に、神がご自分をエリヤに示すとき、激しい風の中にではなく、地震の中にではなく、炎の中にではなく、静かなささやく声によって示されました。その声を聞いたエリヤは隠れていた洞穴から出て、また主の働きを引受けるためダマスコの荒れ野へ向かって行きました。心を悩まされたくないと神の恵みの中に洞穴で安住していたとき、神がささやかれます。人を愛するように。貴方は求められている。

エリヤの後継者として選ばれたエリシャにも、またその後継者として選ばれているクリスチャンにも、主なる神様は確かにささやくように語りかけていらっしゃるのではないでしょうか。貴方を愛している。わたしは貴方を求めている。(主教 ガブリエル)


2001年10月号

この夏は胸にこたえる三つの出来事に参加しました。

第一に、長崎原爆記念日に長崎の礼拝に参加し、それに引き続き行われた交流会に参加したことです。礼拝の中で三分程黙祷をし、さまざまに心の中で思い起こしているうちに、原爆投下を告げるサイレンが11時2分に町中に鈍く響きました。56年前のこの時に長崎が一瞬にして生き地獄と化し、7万人の人々が一瞬にして亡くなりました。被爆した人は今でも思い出したくない、話したくない程の苦しみを余儀なくされています。

交流会では被爆者が「今、初めて話します」と言われ、涙ながらに話してくださった言葉は心に深く訴えるものでした。原爆はさ程に残酷な結果をもたらすものであると身に染みて思わされるときでした。

もしも、原爆投下を決定する人が、その残酷さを身に染みて感じられる人であったなら、果たしてあのような決断をしたのであろうか。

第二に、8月13日に勧告に滞在していたことです。小泉首相が靖国神社参拝している様子が韓国のテレビに映され、その周りに人だかりがありました。日本人である私に、貴方はこれをどう思うのか、と問われたとき、負の歴史を背負っている自分を実感せざるを得ませんでした。

第三に、今年も部落解放セミナーに参加して、日本社会から受けている、いわれの無い差別に苦しむ人々の声を聞きました。

その場に身を置き、人との交わりを通してのこの三つの体験は身に染みる学びの時でした。頭の中での知識とは違い、身に染みる知識がある時、その判断には違いが現れてくるのではないかと思いましたのです。(主教 ガブリエル)


2001年9月号

最近、友人の連れ合いがホスピスに移り、数日後にこの世での人生を終えて、神様のもとへと旅立たれました。その亡くなる半日程前に、友人は最後の時のお願いのために私を訪ねて来られました。妻の願いでもあるからとのことでした。

かなり辛いときにお連れ合いはプロテスタントの教会にも訪ねたことがあったとの事。それならばイエスに全てを受入れてもらい、イエスに全てをゆだねる洗礼を受けられたらどうですか、と友人に勧めてみました。

わたしと話し合っている時に緊急電話を受けた彼は病院に戻り、妻に「洗礼を受けるかい」と話したそうです。妻の言葉は彼には予想外の「受けたい」との言葉に彼は少し驚き、喜んだようです。

連絡を受けてわたしは病院へ行き、洗礼を授け、聖餐式をいたしました。

礼拝の中でも、礼拝の後にも主イエスの恵みについて聞いてもらいました。主イエスはわたしたちを受入れてくださる。わたしたちはイエスの体に継がれる。またイエスはわたしたちと一緒にいてくださり、苦しみを良く理解し、共に苦しみ、共に苦しい叫びを叫び、共に死んでくださる、と。そして人は死んで終わるのではなく、復活の約束をイエスはしてくださりイエスご自身が身をもって証しされました、と話しました。

この言葉を、まるで海綿が水をグングン扱い込むように聞いている姿。その通り了解できると言っているかのような清々しい姿。目から涙を流しつつ平安の内に目を天に向け続けているような姿。夫である友人とわたしは、その姿からイエスの御言の真実を一層深く知らされた思いがいたしました。(主教 ガブリエル)


2001年8月号

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」ルカの福音書十章二節に記されています主イエスの言葉です。この言葉は七二人をすべての町や村すなわち全世界に送り出された時に、主イエスが彼らに言われた言葉です。

主に導かれ、従い、福音を伝えたいと願う人々を、イエスは良しと認めて、主イエスの手となり、足となり、口となって働くことを認められました。七二人もの働き人がいれば多くの人がいると思えます。しかし、イエスは彼らが町や村へ出発する前に、まず言われます。町や村に入って平和を告げると共に、収穫の主に願い祈り、各地において、自分達と同じようにイエスの手足となり口となって生きる人を求めるようにと。

伝道とはイエスのように生きること、即ち、イエスの命を生きることが真に充実した人生を生きられることを証し、そのような人々を励ますことではないでしょうか。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」との言葉をもってイエスは自分のように人も生きることができると教えておられます。

信徒としてイエスのように生き、また聖職としてイエスのように生きた人々が何と多いことか。一九八○年発行された日本聖公会九州教区史には記録に残さずにはいられない程の信徒たちの良き働きが記載され、また聖職の働きが多く記載されています。
働き手を求めて、町や村へ出掛けて行くようにとのイエスの御言は、伝道者にその目的を明示されているのではないでしょうか。(主教 ガブリエル)


2001年7月号

「祝福」の言葉が祈祷書の中に幾つかある中で、聖婚式および病人訪問の式に記されています祝福の言葉を読んでみてください。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜るように。」

この祝福の言葉をゆっくりと読み、味わい、黙想する。そのとき、主なる神がわたしに関心を示し、キッチリとみ顔をこちらに向け「あなたを思っている」との愛を示してくださることを感じ、主の平安とはこのことかと思うことができるのではないでしょうか。

祝福には母の祝福、父の祝福、連れ合いの祝福、子供の祝福等々もあるでしょう。「毎日あなたを思い、祈っている」と母から聞いたとき、こそばゆいながらも嬉しく思いました。実家を訪ねますと私の写真も飾られており、その前で祈っている母の姿を思い浮かべまして、母の祝福を嬉しく思いました。

また多くの人から、毎日貴方を思い祈っています、と告げられますとき、喜びと励ましをいただきます。いろいろな場で、いろいろな仕事が始まり、終わる中で、ひと時、手を休め、気持を休めてみることが、わたしたちには必要ではないでしょうか。

主なる神が思いをこめてみ顔を向けてくださっていることを思い、また何人かの人がわたしを思い起こし祈ってくださっていることを思ってみてはどうでしょうか。更に、大切にしている人の顔を思い起こし、貴方の祝福をその人々に注ぐことができれば、わたしたちの豊かさは更に増すのではないでしょうか。(主教 ガブリエル)


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