教区報「はばたく」に掲載のコラム

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最新メッセージ

2021年10月号

 ライフワークの「金子みすゞを歌で伝える」活動は、コロナ禍で止まったまま。
歌う事を忌み嫌う今の状況は、私自身を否定されているようで苦しく、私は今「荒野」に追いやられているようだ。

 誰かに届けたいと願って歌ってきたみすゞの詩を、今、自分のために読み返している。

 『繭と墓』蚕は繭にはいります、きうくつさうなあの繭に。
/けれど蚕はうれしかろ、蝶々になつて飛べるのよ。
/人はお墓へはいります、暗いさみしいあの墓へ。
/そしていい子は翅が生え、天使になつて飛べるのよ。

 繭を破って出てくる成虫は、白くフワフワとした蝶々のようで、空を飛べない。
ましてや養蚕では人間が絹糸を取るために利用され、繭の中で命を終える。
人間も、死ぬと暗い寂しい墓に入れられる。
けれどみすゞは、死んでいった蚕を蝶々にして空へ羽ばたかせ、死んだ人も生きた間に出会った人の心に思い出という白い軌跡を残しながら天へ上げてくれる。
この詩を、急逝した友へ捧ぐ。
(牛島和美)


2021年9月号

 この夏、オリンピックとパラリンピックが行われました。

開催の是非には様々な意見が有るかと思います。
しかし、やはり選手の皆さんの努力や勝負に臨む精神力に、感動と励ましをもらいました。

 意志力に関係のある脳の部分は前頭葉で、人間の脳の約三十%を占めています。
人間に近いチンパンジーでも、十%位しかないとのことです。
思考や行動のコントロールを司る前頭葉は、まさに人間らしく生きるために働いています。

 この話を聞いた時、十字のしるしをいただく洗礼式の一場面を思い出しました。
「人間らしく生きなさい」と神様は願っていると感じたからです。

 人間らしさとは何でしょうか。
人それぞれだとは思いますが、「自分を大事にすること、周りの人も自然も自分と同じように大事だと思うこと」だ

とわたしは思います。

 地球上の知り得ない人たちと一緒に、応援したり励ましたり感動したりした、平和を願う夏でした。

(ヒルダ 浜生 牧恵)

2021年8月号

 「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」( Ⅰ コリ一・二十五)

 この一節を読んで、まず神の偉大さを改めて知らされる。
しかし、よく読んでみると、神にも「愚かさ」「弱さ」があると著者パウロは記している。

 全知全能とも言われるわたしたちの神は、畏れ多く、近寄りがたい存在であると同時に、常にそばに寄り添ってくださる存在でもある。
そして、わたしたちの祈りや歌を、喜びをもって受け入れてくださる存在である。

 寄り添うこと、受け入れることは、愚かさや弱さを認めた上で、はじめて生まれる「優しさ」や「慈しみ」という感情によって実現される。
それを教えるために、人の子=イエス・キリストをわたしたちに与えてくださったのではないか。
わたしたちが「愛」というものを知るために。

 「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創一・二十七)
愚かさも、弱さも、神が分け与えてくださった、大切な賜物だったのだ。

(モーセ 酒井 健)

2021年7月号

 私は、音楽が好きです。
とくに好きなのは日本のロック。

数カ月に一回はライブハウスで騒ぎ、夏には野外の音楽フェスに行くことが、私の楽しみです。
しかしこのコロナ禍で、このようなイベントの多くは中止になってしまいました。
日常生活における楽しみが一つ減り、物足りない日々が続いています。
そんなある日、部屋の掃除をしていると、鼻歌で聖歌を歌っている自分がいました。
考えてみると、スマホにイヤホンをつないで大好きなバンドの曲を聴いてはいましたが、この約一年間で唯一、生で耳にした音楽は、オルガンや会衆の歌声による聖歌でした。
スマホを通してではなく生で触れた聖歌が、私が日常生活で足りないと思っているところを少し埋めてくれていたようです。

 この原稿を書いているのは五月末。
新型コロナのワクチン接種が始まりました。
一日でも早くマスクを外して聖歌を歌うことができ、音楽フェスにも行くことができますように。

(クララ 久保希世子)

2021年6月号

 四月二十三日、人権問題担当者主催の「難民と共に生きる」教会オンラインセミナーに参加しました。

 このセミナーの背景には、政府が今年二月に閣議決定した、入管法改定案があります。
日本政府は難民に対して異質な政策を取っており、難民認定率はわずか〇・二五%。日本政府は、難民認定制度を改善するのではなく、難民申請者の強制送還を容易にしようとしています。

この動きに対して、日本聖公会も反対しています。

 この問題に対して、私たちはどう関わり、行動すればよいのでしょうか。

 私たちにとって重要なことに「すべての人にイエス様の福音を宣べ伝えること」があります。
入管法改定の問題では、福音を「人権と正義」と言い換えてもよいと思われます。
私たちには、人権と正義の実現を常に意識して、この問題に関わり行動することが期待されています。

 私たちの信仰生活が、人権と正義の道へと進んでいきますように。
(パウロ 下村 仁士)

2021年5月号

 先震災から十年を前にした二月、東北地方は大きな余震に見舞われた。
定期的に連絡を取り合う友にお見舞いの電話をすると、今年に入ってお亡くなりになった方がいらっしゃることが分かった。

 彼女とは私が初めて被災地を訪ねた際に知り合い、親交を深めた。
私にとっては、年に一度の帰省先の祖父母といった感覚にもなっていた。

 高齢のご夫婦ゆえ、毎年再会を約束するたびに「もしかしてお会いするのはこれが最後になるかも」と、うっすらと思ったりもしていたが、実際にそうなるととてつもなく寂しく、昨年コロナの影響で訪問できなかった悔しさが一層増してしまう。

 開催中の信徒研修会で「死について」の回があり、キューブラー・ロス著「ダギーへの手紙」が紹介された。
この世でやらなければいけないことを全部できたら、痛いことも、怖がることも、悩むこともなく、体を脱ぎ捨て自由になれる…彼女の魂が今、蝶のように自由に舞う様を想いながら「神共にいまして」を献唱した。
(ヴェロニカ 牛島和美 )

2021年4月号

 先日、卒園間近の保護者の方から聞いた話です。
「ぼく、大人になってお父さんになったら、子どもをO幼稚園に入れるんだ。そしたらまきえ先生のクラスが良いな。」(二十年くらい後もクラス担任をしているのかと思うとぞっとしますが)とても嬉しい言葉でした。
この春、日本のあちこちで、このような子どもたちの会話があったことと思います。
またそう願います。

 不安の中で歩んだ一年でした。
先生の顔半分がマスクに隠れていたり手も繋げなかったりする異常な生活が続いています。
そんな中でも子どもたちが、幸せを感じ希望を持って生活していたことが何より嬉しかったです。
子どもたちのひたむきな姿にいつも力をもらいます。

 私たちは不安にとらわれたとき、自分の軸を失い立つことが出来ません。
しかし、湖の上を歩いたペトロさんのように、イエス様を見ることで再び歩き出せることも知っています。

不安を感じていることを受け止めながらも、光を見つめて進んでいきたいと思います。
(ヒルダ 浜生 牧恵)

2021年3月号

 大斎節第一主日の福音書聖書日課は、決まって荒野での誘惑の場面である。
このコーナーで、悪魔に執筆を依頼すれば、誘惑の言葉で埋め尽くされるに違いない。
誘惑というと、どうしても世俗的な快楽を思い浮かべてしまうが、悪魔のそれは「神様を裏切れ」という、とても重いものである。

 荒野での日々は四十日間続いた。そして、キリストは悪魔の誘惑に打ち勝ち、宣教の旅を始めるのである。
ものの本によると、四十日間というのは「新たな始まりに向けた準備期間を象徴する数」とある。

 ここで、わたしたちが、四十日間荒野に放り出されることを想像してみよう。
荒野のイメージは、人それぞれあるだろうが、決して居心地のいい場所ではない、というのは共通しているところだと思う。
そんな場所で、わたしたちはいったい何を思うのであろうか。
新たなる何かを感じることができるだろうか。
そんなことを思いながら、今年の大斎節を分かち合いたい。
(モーセ 酒井 健)

2021年2月号

 結婚する前のことです。
ある書家の方から妻に、「結婚のお祝いに書を送りたいので何かリクエストする言葉はないか?」との声が届きました。

相談された私は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」(マルコ一章十一)という言葉をお願いしました。

それから十六年ずっと、その書を家に飾っています。

 顕現後第一主日に、主日の福音でこの言葉が読まれました。
折しも、新年の大寒波で交通が麻痺。
新型コロナウイルスの感染者急増で、緊急事態宣言が再発令されるなど、行く先に不安を感じさせる出来事が続く中でした。
しかし、主日の福音にこの言葉を聞き、イエスの歩みには、神の愛の言葉が先導していることを知りました。

 新型コロナウイルスの猛威は教会の歩みにも影を落としています。
しかし、教会の歩みの真ん中には常にイエスがいます。
「あなたはわたしの愛する子」という神の声がわたしたちを導いていると信じて歩みたいものです。

(司祭 バルナバ 牛島幹夫 )

2021年1月号

 あけましておめでとうございます。本年も広報部をどうぞよろしくお願いいたします。

 みなさま、お正月はどのようにお過ごしでしょうか。
教会の暦では、一月一日は主イエス命名の日ですね。
私は、聖歌二二三番を歌うと「ああ、年が明けたなあ」という気持ちになります。
一節でいうと、二段目の「喜び迎えよ」と徐々に音が高くなっていくところは、年が明ける瞬間へわくわくしながらのカウントダウン、そして「年のはじめ」でパアーっと明るい気持ちで新年を迎える、というイメージを持っています。
しかし改めて聖歌集を見ていると、一段目の「救いの名前を 今日受けた主イエス」の部分でもう年が明けていて、イエスと名付けられたことをお祝いしている‼ということに気づきました…。
でも、解釈は人それぞれでも良いのではないかと思っているので、イエスと名付けられたお祝いと、パアーっと新年を明るく迎える気持ちで、私は今年もこの聖歌を歌いたいと思います。
(クララ 久保希世子)

2020年12月号

 近頃「人新世(ひとしんせい)」という言葉が話題になっています。
人新世はもともと地質学の用語ですが、この言葉は人類の活動が環境を大きく破壊してしまい、地層にまで影響を及ぼしていることを意味します。

 例えば、新型コロナウイルスのような未知の感染症への直面、極端な気候変動による重大災害の多発、資源の枯渇が影響した貧富の格差の拡大など、人類がもたらした危機が、人新世という言葉に象徴されています。

 ところで、祈祷書百十九頁には、産物と産業のための祈祷があります。
そこには、神さまは「人のために必要な産物を備えてくださいます」と書かれていますが、そこからは、神さまは不必要な産物は備えてくださらないことも伝わってきます。

 人新世の危機の拡大を防ぐためには、資源制約を踏まえ、不必要な産物を抑制し、すべての人に必要な産物が備わる社会の実現が必要です。
私たちも、こうした社会を、信仰生活を通じて求めていきましょう。

(パウロ 下村 仁士)

2020年11月号

 振り返ると、この欄に文章を掲載させていただく時期に十一月号が続くのは偶然の不思議。

というのも、毎年この時期には恒例の東北訪問の計画を立て、心はすでにかの地へ向かっている、という件をいつも書いているからだ。

 その訪問も、今年はコロナ禍で見送ることにした。
毎年訪ねる先には高齢者や基礎疾患のある方が多いからだ。

 感染防止対策として在宅勤務やWEB会議が取り入れられ、呑み会も画面越し。
目新しさもある一方、やっぱり何だか味気ない。
面と向き合い握手をし、時に抱き合い、涙を流す。
時には語気を荒げ、問答を交わす。
人と人との間に「熱」が起こる。
しかし、画面越しではその「熱」が今一つ伝わらない気がするのは、相手の顔を見てはいるものの、相手の目を見ていないからではなかろうか。

 障がいがある人や遠隔地に住む人の参画を容易にするアイテムとしてはもっと早くに利用すべきだったシステムだが、音声だけでなくやはり目を見、触れ、心と言葉を受け渡したい。

(ヴェロニカ 牛島 和美)

2020年10月号

 九月に台風が続けて来ました。
各地で被害に遭われた方のことをお祈りしています。

 台風が過ぎると、勤務先の園児たちが登園途中に拾った枝や葉、松ぼっくり等を嬉しそうに見せてくれます。
一緒に小さなコーナーを作り飾りました。
次に登園してきた子も持って来たものをそのコーナーに置いたり、他の子も「これ、ここがおもしろい」と手に取って観察したりしていました。
自分も見つけたい!と園庭で落ち葉を拾う子もいます。

 大人が生活の中で簡単に見過ごすものでも、子どもたちには不思議さと驚きが詰まった宝物です(特に神様の創られた自然物)。
まだ緑色の松ぼっくりは「ここ、べたべたする」との子どもの発見に、どこからべたべたが出てくるか私もじっくり観察したくなりました。
知った気になって感動しないでいる自分を省みる毎日です。

 天の国はこのような者たちのものであると言われたイエス様が「生活の中に一つひとつ感動 と喜びがあるよ。
それを味わって過ごすことを神様は喜ばれるよ。」と応援してくれているように感じます。

(ヒルダ 浜生 牧恵)

2020年9月号

 主イエス変容の日の特祷の中に、「揺れ動くこの世から救い」というフレーズがある。
現行の祈祷書は一九九〇年代初頭発行なので、ここ三十年ほど用いられているフレーズである。
それまで用いられてきた一九五九年版には、このフレーズはない。

文語体から口語体への改訂の際に「この世の心づかいを離れて」というものから変更されている。

 教会生活は、時代に合わせて変わっていくものである。

ひるがえって考えてみると、一九九〇年前後、世界情勢は大きく変化した。
そのような時期に、「揺れ動く~」というフレーズが用いられたのは偶然ではあるまい。

 しかし、今年ほど身に染みて「揺れ動くこの世」を実感した年もそうそうないだろう。
目に見えないものへの不安。
聖書を読んでも、それを払拭することはできない。
しかしわたしたちは、救いを求めることができる存在を知っている。

 最高の賜物を、
今こそ感じたい

(モーセ 酒井 健)

2020年8月号

 四月と五月、福岡聖パウロ教会では教役者と家族で主日礼拝を守ってきた。
礼拝に出席できない信徒へメッセージを伝えるため、主日ごとのメッセージを文書で郵送すると共に、インターネットを利用して動画でもメッセージを発信した。
すると、病気のため長い間、礼拝に出席出来ていなかった方から「ずっと礼拝に行けなかったので、久しぶりに先生の説教を聞けて嬉しい」との感想をいただいた。

インターネットを使った説教動画配信は新型コロナウイルス感染症への対応として行ったことだったが、実はずっと前からそれを必要としている人がいたということに気づかされた時だった。

 六月に入り、公開での礼拝が再開して以降も毎週土曜の夜に主日の福音書についてのメッセージを録画し、YouTube で公開している。
自分にとっての動画公開の一番の効用は、自分が話す姿を後から見返すようになったこと。
自分が話す姿を視聴し、自分と対話する時となっている。
思わぬ恵みが与えられている。

(司祭 バルナバ 牛島幹夫)

2020年7月号

 私が所属する福岡聖パウロ教会は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、四・五月の礼拝を中止しました。
学生の頃、部活や受験を理由に教会に行かない時期はありましたが、行けないのは初めてのことでした。

私は理学療法士として働いており、この状況の中、以前勤めていた病院での出来事を思い出しました。
ある日患者さんの病室へ行くと「リハビリには行かんよ。」と一言。
その方は腰痛を理由にリハビリに行きたくないと言うことはあったのですが、その日の理由は「神父様が来るから。」でした。
その時刻まではまだ一時間ほどあったのですが、入院中という教会に行けない状況での神父様の訪問が待ち遠しく、リハビリどころではなかったようです。

 今回の礼拝中止期間中は、牛島司祭からのお手紙とフェイスブックでの礼拝やメッセージの配信がありました。
教会に行けなくても神様はそばにいてくださる。
分かってはいるのですが、手紙や配信によって、改めて教会や神様を近くに感じることができました。
(久保 希世子)

 

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