教区報「はばたく」に掲載のコラム
2014年バックナンバー

2014年12月号

 今年の九月、台湾一周の旅をした。
九州とほぼ同じ大きさの台湾は、西は平野が広がり、東は富士山より高い玉山(標高三九五二メートルで、日本統治時代はニイタカヤマと呼ばれていた)を含む山脈が南北に走り、その東側は崖が海岸に迫るような狭い土地を縫うように道路が通っている。

そこをバスで走っていると、崖には、十字架のついた墓地が多く見られた。
ここは、台湾の先住の少数民族に、戦後カトリックや長老派の教会が伝道した土地である。
宣教師たちは食糧不足で困っている人々に、本国から小麦を送ってもらい、パンを配りながら伝道したのだ。
これを揶揄して「麺包教」と言われていた。

麺包とは、パンのことである。

パンで人を釣っている、と批判されながらも、自分たちの主張を前面に押し出すのではなく、相手の望んでいることに応えようとした態度が、この多くの十字架の墓になったのではないか。
降臨節を迎え、相手の必要を察知しながら、クリスマスのプレゼントを用意したいと思う。

(司祭 小林 史明)

2014年11月号

 幼児教育の専門家から、「かくれんぼ」が子どもの成長に大変重要な遊びである、と聞かされて驚いたことがある。

遊び始めた頃の子どもは、自分では隠れたつもりでも、『頭隠して尻隠さず』他の人から観ると全く丸見えで、ちっともその姿勢ができていない。

かくれんぼは、自分を客観視できないことを克服する、『脱中心化』のための訓練なのだ。

幼稚園で手を洗ったりブランコに乗る時、順番待ちさせるのも、同じ練習だと言う。

 考えてみれば、私たちが洗礼を受けてキリスト者になるのも、同じ意味を含んでいる。
『生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。』(ガラテヤ二・二十)。
幼稚園の毎月の聖句にも、基本的な次の言葉が選ばれる。
『おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。』(口語訳・ピリピ二・四)。
幼稚園だけでなく、各教会も信徒個人も心して生活するべき聖句である。

(司祭 小林 史明)

2014年10月号

 イスラエルを紹介しようと世界地図を広げると、日本とイスラエルの中間にインドの周辺が目に入った。
イエス様は世界で一番低い死海があるイスラエルで生まれたが、シャカは世界で一番高い、エベレストのあるネパールで生まれたことに気づいた。
アジア大陸とインドがぶつかった圧力で海の底だった所が隆起して世界で一番高い山ができた。
そして、アフリカのヴィクトリア湖から発する地表の裂け目が、大地溝帯になり、死海ができたことを学ぶ。

 モーセとエリヤは高い山に登って神様からの啓示を受け、イエス様も受難の前には高い山の上で御心を悟り、山を下られたことを思い出す。
そして最も低い体験をしたからこそ、私たちを救える方になられたのだ。

キリストは『僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。』(フィリピ二・七〜八)
崇高な理想と生々しい体験が人を成長させるのだろうか。

(司祭 小林 史明)

2014年9月号

 最近、集団的自衛権、原発再稼働など、私たちの力の及ばない所で、社会が一定の恐ろしい方向へ流されていくのを感じることが多い。
その問題を捕らえた小説、吉村萬壱著「ボラード病」を読んだ。
港の船が流されないためロープを縛り付ける岸壁の突起物をボラードと言う。

 これは、何か大きな災害のために長い間避難生活をしていた人々が、故郷「海塚」に帰り、街興しをする話。
人々は目立つ行動を避け、地域の結び付きの大切さを強調するが、実際はお互いを監視して、密かにファシズムがはびこっている。
それに疑問を抱くと、捕縛され、社会から離される。
この隔離病棟に入れられた人々の病名がボラード病なのだ。
見えない恐ろしい力に翻弄される社会を船になぞらえ、それが流されないように繋ぎ止める役割が、縛られているボラード病の人にある、というわけだ。
右傾化した三・一一以降の日本社会を批判した小説だが、教会の中にも使命や役割を自覚したキリスト者の出現が期待される。

(司祭 小林 史明)

2014年8月号

 六月十五日の日曜日。
午後三時過ぎに直方に行った。
すると子どもたちが十人余り教会から帰るところだった。
教会学校だ。
牧師が他の教会を兼任し、月二回しかいない。

それまでは牧師がいても開店休業状態だった主日礼拝前の教会学校を、月一回に変更し、しかも、教会の人々も協力できる午後に移したそうだ。
第一日曜日は教会委員会なので、第三日曜日に行う。
幼稚園の園児たちを中心にした子どもたちも朝と違って集まりやすく、親もその時間に、買い物などできて都合がいいそうだ。
対象者の状況に合わせ、思い切った決断をしたことに敬意を表すると共に、各教会の活動を再考させられた。

 パウロは伝統に固執せず、自分の姿勢を変えることを勧めた。
『弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。』(コリントの信徒への手紙一、一九・二二)

(司祭 小林 史明)

2014年7月号

 NHKEテレの「100分de名著」という番組で、五月は旧約聖書が取り上げられ、改めて聖書の信仰を学ばされた。
エジプトでファラオという人間によって支配されていた奴隷の民イスラエルは、そこを脱出して荒野へ出た。
指導者モーセはシナイ山で十戒を授かり、人々を支配するのは、人間ではなく神様、そして神様の掟であることを学んだ。
教会も新しい神の民として、強い者が支配するのではなく、法憲法規などの教会法が秩序を保たせ、統一の基礎となっている。

 約束の地に入った民は、生活に余裕ができて、今まで自分たちを守ってくださった神様を忘れ、多くの偶像に仕えた末、国は滅ぼされた。
だがこの時人々は、守ってくれなかった神様を捨てるのではなく、この不幸は自分達に責任がある、と反省し、信仰が強まったと言う。
我々も、思い通りにならない時、自分を反省することが必要ではないか。
『人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。』(箴言一九章二一節)

(司祭 小林 史明)

2014年6月号

 今年の六月八日は聖霊降臨日だ。
使徒言行録二章では、五旬祭と呼び、過越祭から五十日目の、ユダヤの祭りである。
過越祭が大麦の穂が出始めた時、初穂を神様に捧げるのに対し、五旬祭は、小麦の収穫を祝う、やはり農耕の祭りだった。
しかし、それぞれにユダヤ教の宗教的意味が加わり、前者はエジプトの奴隷生活からの解放。
後者はシナイ山で律法(十戒)を授かったことを記念する。
だから、彼らは、前者をユダヤ国民の誕生、後者をユダヤ宗教の誕生と理解している。
このユダヤ教の伝統的祭りに、新たな意味を加えることで、キリスト教会も祝っている。
過越祭は、イエス様の十字架の犠牲と復活。
五旬祭は、聖霊降臨ということで教会の誕生日。
ところで、シナイ山では十戒を授かっただけだったが、ユダヤ人は、モーセ五書全体であるトーラーまで授かったと受け止め、一年かけて、安息日の集会には、モーセ五書を読んでいる。
昨年の七月、神戸のユダヤ教会堂を訪ねた時の、大切にトーラーの巻物を読んでいた姿が思い出される 。

(司祭 小林 史明))

2014年5月号

 ユダヤ教の過越の食事では、一から十三までの数え歌を歌って、教えを伝える。

①一は天地を創られた神。
②モーセが受けた掟の二枚の板。
③三人の父祖(アブラハム、イサク、ヤコブ)。
④四人の母たち(サラ、リベカ、レア、ラケル)。
⑤モーセ五書。(旧約の最初の五つの書物)。
⑥ミシュナーの六巻(口伝えの律法の巻物。テーマは、種、祭日、婦人、損害、聖物、清浄)。
⑦一週間の日数。
⑧誕生八日目の割礼。
⑨妊娠期間の月数。
⑩モーセの十戒。
⑪ヨセフの夢の星(創世記三七・九)。
⑫イスラエルの十二部族。
(ヤコブの息子の名前に相当。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ゼブルン、イサカル、ダン、ガド、アシェル、ナフタリ、ヨセフ、ベニヤミン)。
⑬神様の性質(出エジプト記三四・六~七)。

聖書で確認してほしい。

私たちの聖書理解を深めてくれるような内容だ。
大斎中の礼拝式文で、聖金曜日の礼拝では、キリスト教の信徒とユダヤ教の信徒の相互の理解が一層進むために祈ることになっている。
ユダヤ教の学びをもう少し進めたい。

(司祭 小林 史明))

2014年4月号

 クリスマス献金の半分を福島の仮設住宅自治会にイースター献金同様送ったら、感謝状に添えて手芸作品が届いた。
私たちの献金は、避難生活を続けている人々が、集まって作業する、その材料費に使わせてもらう、とのこと。
ふと、エーリッヒ・フロムの言葉が思い浮かんだ。

『たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。(中略)誰でも知っているように、貧しい人のほうが豊かな人よりも気前よく与える』。
私たちは気前よく出したわけではないが、会計が赤字でも続けてきたことが、報われた気持ちになった。
これを躊躇なくできるなら、善いサマリア人になれるのだが。

 あのサマリア人は、大勢のユダヤ人に囲まれて辛い思いをしながら生活している。
そんな彼には、傷つき苦しむ人の気持ちが痛いほどわかる。
そして親身に介抱した。
そうしないではいられないのだ。
強い者が弱い者を助けることはできない。
弱い者の弱さに、神様の力は完全に働く。
(Ⅱコリント十二・九~十)

(司祭 小林 史明))

2014年2月号

 ウィスキーを熟成するには、十数年かかる。
樽いっぱい入れても、木製なので完成する頃には、気体として水分やアルコールが2割ほど滲み出す。

これを職人は「天使の取り分」と呼ぶ。
酒は人間が天使と協働して造るから、天使にも分け前があるそうだ。
長く熟成するほど酒の質が良くなり、その分、天使の取り分も増える。
最初の味気ない原料が美酒になるのは、量から質への転換だろう。

献金もそうだ。
『惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。(Ⅱコリント9・6)』神を試みてはならないと言う聖書も例外として次の聖句を載せている。

『 十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために、天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。(マラキ3・10)』

献金は良質な信仰生活のための神様の取り分ではないか。

(司祭 小林 史明))

2014年1月号

 先日の定期教区会では、昨春の臨時教区会で議案が否決された後遺症が、続いていることを知った。
久留米の教会が幼稚園との協働事業として申請し、常置委員会が提案した建築事業である。

教会の人々は、いまだに否決の結果を率直に受け入れられない状況と聞いた。
否決された後、七か月間、久留米と教区の関係は修復できなかったのか。

一番責任を問われるのは、提案した常置委員会だろう。久留米の人々は教区(常置委員会)を頼って教区会に臨んだ。
多くの質問が出たが、納得いく答えでなかったのか、最終的に議員の約半分の賛成が得られなかった。
これは常置委員会の責任も大きいが、我々の信仰の問題として、お互いに御心を探り、 祈り合う謙虚さが足りなかったのではないか。もう一度反省したい。 

イエス様でさえ、ゲッセマネで、「わたしが願うことではなく、 御心に適うことが行われますように。」と祈られた。 
(マルコ十四・三十六)

(司祭 小林 史明))


 

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