2003年12月号

 今月は「はばたく」巻頭に掲載された、主教の言葉です。

 クリスマスに思い起こすこと
 クリスマス時期になりますと思い起こす出来事が幾つかあります。
 それがクリスマスに関連していたことは後々分かったことなのですが、わたしが二、三才の頃のことでした。戦争直後ないし、一年後のことです。当時は、東京の六本木あたりでも裸足の子供がいたときで、身に付けているものも組末なもの、砂糖などもまだ手に入れることが難しかったときでした。
 今の防衛庁の近くに占領軍の駐屯地がありました。
 寒いときでした。兄に手を引かれて、いつもは入ることの出来ない鉄条網の中に受け入れられ、明々と輝く広いホールに連れて行かれ、テーブルの並べられている暖かな部屋に座らされました。目の前には初めて日にするショート・ケーキがあり、サンタクロースの姿をした白人のお兄さんがいました。
 戦後の、食べ物が乏しい暗い、貧しい時期に、心が明るく、暖かく感じたクリスマスの出来事でした。
 また、クリスマスはわたしの人生の転換点でした。降誕日にガブリエルの教名をいただき、キリストの体である教会に受け入れていただきました。二十二歳のときでした。夏に就職が決まりましでも、今後どのように社会人として、一人前の人間として歩むべきか、不安に思っていたときに、キリストの体に受け入れられ安心できたことを思い起こします。
 クリスマスには、マッチ売りの少女の物語をも思い起こします。貧しさの極みの中に生きる人のクリスマスです。貧しさの体験の無いわたしは、少女の思いを想像しながら本を読みました。雪のちらつく冬の夕方、既に暗くなっている街中で、足の冷たさ、体の寒さにいたたまれずマッチを点す少女。マッチの明るさ、 暖かさにひと時ホッとする少女。
 アンデルセンは極貧の中にあった自分の母親をモデルとして物語を書いたと言われています。極貧の中にあってキリストに受け入れられて生きた母親とアンデルセンの信仰が、この物語を通して語られているのではないでしょうか。
 クリスマスは主イエスが極貧の中にお生まれになった出来事です。イエスは、不衛生な、糞の臭いのする家畜小屋で生まれました。天使はこの赤ちゃんが救い主であると羊飼いたちに知らせたのです。この羊飼いたちも羊と生活を共にする、不衛生な環境の中に生きる貧しい人々でした。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへの ( 救い主の ) しるしである。」
 この言葉を告げ知らされた彼らは、自分たちを祝福してくださるメシアの到来を嬉しく思い、急いで出かけて行き、家畜小屋に入り、飼い葉桶に眠る幼子イエスに出会います。
 貧しい者として生まれ、育ったイエスはその後、人々を祝福して言われます。「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。今、飢えている人々は幸いである。あなたがたは、満たされる。今、泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」と。
 貧しい人、弱い人、人々から見下げられている人 、不安な人、孤独な人、悲しんでいる人、希望のもてない人。心が暗くなり、歩み出せない人を主イエスは祝福して彼らの心を照らし、希望を与え、歩み出す力を与えられました。
 今、クリスマスの時期に、イラク、アフガニスタン、パレスチナ、その他、戦争ゆえに多くを失ってしまい、途方にくれている人々を思います。クリスマスの祝福がこの人々にありますよう祈ります。


2003年11月号

 主日毎の主教巡回は楽しいもので、心うきうきしながら朝車を走らせます。車を運転する時間は福岡県内の場合ですと一時間から一時間半。鹿児島復活教会へは三時間半、宮崎聖 = 二教会へは四時間弱、延岡聖ステパノ教会へは五時間弱で行き着くことができます。
 その聞に自然の豊かさ、季節の変化を楽しみ、見慣れた景色でも、その変化に触れることができると嬉しいものです。
 車の中では音楽を楽しむために様々な曲を MD に収めて、三十枚以上用意しております。
 一流の声楽家、演奏家による曲を楽しんでいるのです。この MD によって同じ曲を何十回聞いたことでしょうか。今は曲の初めの部分を聞きますと、次から次へと曲が、頭というか、胸というか、体の中で聞こえてくるのです。
 しかし、最近は同じ曲が機械的に聞こえてきますとつまらなくなり、聞くのを止めてしまうので す。
 景色の場合ですと同じ景色を見ているようで、その度に違った顔を見せてくれます。自然の生きている様子を見せてもらい、見るわたしに力が与えられるような感謝の思いが起きるのです。
 教会の訪問も何度訪ねましでも、新鮮です。聖歌の歌い方は MD で聞く大聖堂の歌とは違います。良く訓練された聖歌隊メンバーの聖歌とは比べものになりません。しかし、礼拝で歌われる聖歌は出席者の顔が見えます。そこでの聖歌は、出席者の生きた賛美の歌となっています。
 礼拝後の愛餐会でも聖歌が歌われることがあります。信仰の話が分ち合われ、聖歌が歌われ、生きた賛美の声を聞いて嬉しく思うのです。常に新鮮な思いで皆さんに会える主教巡回はわたしの楽しみであり、喜びです。


2003年10月号

 今年は六月十四日に東北教区の主教按手・就任式が行われ、また九月六日には京都教区の主教按手・就任式が行われ、そして十月には大阪教区の主教就任式が行われる予定です。
 また九月十五日には北関東教区の主教選挙が行われ、そして来年には神戸教区の主教按手式が行われるでしょ う。
 聖公会は歴史的主教制をとっていますので、「一致の要」となる主教の按手・就任式には力が注がれます。
 キリストは十二使徒をこの世に派遣して、彼らに御自分の働きを担わせましたが、その働きは、その後、代々、主教たちに委ねられ、そして、主教を通じてその働きは教会に与えられてきました。祈祷書四六五頁の言葉を見てください。主教は按手した司祭に聖書を渡して次のように働きを委ねます。「聖書を受けなさい。これはキリストの福音を述べ、聖実を執行するために、神があなたに与えた権威のしるしです。」
 聖職按手によってキリストの働きは未来へと委ねられて行きます。主教には過去と未来を繋げる要としての役割もあります。
 また教区の一致のしるしとして、教区主教の名前は毎主日唱えられ、教区一致の要としての存在を皆で確認します。二八八頁の言葉「 ( ことにわたしたちの主教・・ ) 」を思い起こしてください。
 教区主教は教区内の一致の要だけではなく、主教団の交わりを通じて日本聖公会の一致の要ともなっており、また世界の聖公会の一致の要にも成っています。
 教区主教を扇の要として認識し、一つとなって、この世に関わっていくとき、わたしたちはキリス トの働きをより良くできるのではないでしょうか。




2003年9月号

 八月は毎年、戦争で亡くなった人々を思う季節となります。
 私は八月九日には毎年、長崎聖三一教会に居ることとし、原爆が投下された午前十一時二分には黙祷の中で、原爆投下を表すサイレンを聞くことにしています。黙祷の中では様々に想像していますが、突然、低く鳴り響くサイレンが聞こえてきますと、何か心にハッと身構えて一九四五年のその時にいるような、爆風に吹き飛ばされるような自分を思い浮かべます。
 サイレンが鳴り終わって、しばらく後に、全ての犠牲者を覚えて祈り、特に長崎聖三一教会の二十八人の犠牲者の名をあげて祈り、また、その名が刻まれているプレートの前に行き献花をいたします。
 被爆者の証言を聴き、また諸記録を読みますと、その中に、「地獄そのものであった」と述べられる人の多いことを知り、原爆の残酷さ、戦争の悪魔的力を思うのです。人間性を忘れさせる恐ろしい力を。一旦戦争になったら、悲しいかな、人は何でもあり、になってしまいます。
 九州には、戦争で死んでいった人たちの墓があちらこちらに建てられています。
 田原坂に行きますと、西南の役の犠牲者一四,一〇九任の名前が刻まれた石碑が建てられています。
 また、日清戦争、日露戦争、さらに太平洋戦争の戦死者名が刻まれた石碑が各地に建てられています。
 各地でそれらの石碑の前にたたずむとき、どのように死んでいったのかと想像するのです。
 戦争を知らない世代が圧倒的多数となっている日本では、これ以上石碑に名が刻まれないために、繰り返し、繰り返し、原爆・戦争の証言をしっかりと聴く必要があるでしょう。「過ちを繰り返さない」ために。


2003年8月号

 「降臨教会」礼拝堂では毎年、春と秋にリデル宣教師およびライト宣教師を覚えて記念礼拝をいたします。
 両女史はハンセン病患者と出会い、患者たちの心身ともなる苦しむ姿を目の当たりにした時、キリストの慈しみをもって患者たちと人生を共にしようとされた人でした。
 記念礼拝の際には、両女史の働きの原点を再確認するためこ、両師について記されている本を読むことにしています。特に今回はリデル宣教師とハンセン病者との出会いに心がひかれました。
 同師は衝撃を次のように記しています。「麗しき花の下には何があるかと見ますれば、それはこの上もない悲惨な光景で、男、女、子供のライ病人が幾十人となく道路の両側にうずくまって居まして(中略)幼い子供も親に教えられて、小さい痛ましい手を差し出して往来の人に哀れみ をこうて居ります。」一八九〇年(明治二三)の光景です。
 同師はすぐに寺の近くに臨時救護所を開設すると同時に、病院設立の計画を立てて、母国の知人らに援助を求めて五年後に病院を完成しています。黒の人生に再び希望の春が回り来るようにと 「回春病院」と名付けられたそうです。
 わたしは記念礼拝の度こ、リデル師に衝撃をもたらしたハンセン病者の苦渋の人生に恩いを巡らすのです。この人々の暗黒の人生がどれほどの暗さであったか。また、その暗さの中でキリストの光を受けて、輝く人生を送っている人々のことを覚えるのです。
 わたしは元ハンセン病患者であり、友人でもある人から聞かされた証しは忘れられません。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし・・・・キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」この聖句のように、わたしたちはキリストを生きていると目を輝かし て言われました。


2003年7月号

 聖霊は、昔も、今も、わたしたちに関わり続けてくださる。
 聖霊降臨日の出来事を使徒言行録およびヨハネの福音書に述べられています記事を通して想像しますときに、どう受け止めたらよいのか戸惑いを覚えることがあります。
 しかし、聖霊を受けた人にとっては、あのような表現がその時の思いや状況を適切に表すものであったのではないでしようか。
 共にいる仲間が皆一様に神の御心にドーンと出会った。神の御心に触れた弟子たちは喜びに満たされて、各自が自分なりの表現で喜びを言わずにはいられなかった。ある人は拙くボソッと「嬉しい」と言っただけかもしれません。
 またある人は懐舌に語り続けたかもしれません。その語る弟子の表情、言葉の調子、喜びに満たされた彼らの思いは聴く人々に強く訴えるものがあったのではないでしょうか。
 一年程前に病床で洗礼を受けられた方のことが思い起こされます。彼は洗礼を受けたいと意思表示された方ですが、しばらくして脳梗塞を患ってしまい、彼の意識はおぼろげとなりました。しかし、洗礼式直後に、意識のおぼろげな彼が言った言葉は忘れられません。「もう、最後のときが来ても安心です。ー緒にいてくれる方がいますから。」わたしは聖霊の驚くべき働きを目の当たりにした思いがいたしました。
 洗礼後、入院中の彼を訪問しましたが、彼のおぼろげな意識はそのままでした。しかし、訪問する度に彼が口にする短い言葉「嬉しい」あるいは、祈りの度に流される涙は、神と人を全く信頼し、全てを委ねて平安を得ている彼の信仰の証しでした。その場にいる者は彼の証しに励ま されました。全てを委ねた中での神様への旅立ちもまた証しでした。


2003年6月号

 復活日の礼拝では赤ちゃんの洗礼を行うことができました。
 母親に抱かれて教会へ来た赤ちゃんは多くの人に喜び迎えられて、迎える人々の顔は優しさに満ちていました。
 洗礼の際には、教母の腕に先ず抱かれて、教母の腕から司式者の腕に渡されました。司式者であるわたしは素敵な神様の賜物を預けられたような喜びを感じました。
 水を頭に注ぐとビクッと反応して、ニ回、三回と水を注ぐに従って、耐 えられないような顔をして、遂には泣き出してしまいました。
 しかし、赤ちゃんのその仕草はーつーつが可愛く、洗礼式の厳かな雰囲気の中にも、笑顔を隠すことができませんでした。
 洗礼によってキリストの命をも生きることになった赤ちゃん。両親から 与えられた命、神様から与えられた命を生きる赤ちゃんの姿に、わたしたちの信仰の姿を示してもらっている思いがいたしました。
 神様と人を信頼して自分を預けて生きている姿。
 共に生きる人々を信頼して、全てを委ね、その人の腕の中にいる赤ちゃん。命を含めて、食べるものも、寝る場所も、行くところも、見るものも全てを委ねている赤ちゃ ん。このような赤ちやんを腕に抱くと、人は優しくさせられるのでしょうか。
 人々の心にある優しさが表に引き出され、素直な人間へと導く赤ちゃん。この子のためには頑張るうと責任をもって生きていく者にさせる赤ちゃん。
 全てを委ねられている親の顔に、こほれ落ちるような笑顔と親である姿を見て、心が温かくなりました。
 そして思いました、わたしたちは母マリアから赤ちゃんイエスをこの腕 に委ねられているのではないか。わたしたちの喜びと成長のために。


2003年5月号

 九州教区に牛島司祭が与えられますことを嬉しく思い、神様に感謝いたします。
 恵みあふれる神様の御言葉を多くの人に分かち合う働きはこれまでにも、牛島執事また信徒の方々によって行われてきました。伝えられた御言葉は多くの人を励まし」慰め、新しい歩みを始めさせる力、となってきましたでしょう。
 この御言葉の恵みに加えて、教会には更に聖餐の恵みがイヱス様から与えられております。聖別されたバンとぶどう酒を用い、バンとぶどう 酒が人々に授けられるときに主イ工ス・キリストの命が人々に分かち合われる恵みです。
 数年ぶりにバンとぶどう酒(主イエスの御体、御血)を受けた人が「主 イエスの命と愛が自分の体に漆みる」と言われ喜ばれていた姿を思い出します。
 御言葉と聖餐を通して神の慈しみは人々に分かち合われます。牧会者はバンとぶどう酒を受けてもらうために病院あるいは外出できない人々を自宅に訪ねます。陪餐されたその人が「イエス様がわたしの体に入ってくださる」と涙をもって喜びを表されるとき、牧会者としてはこの上ない喜びを感じます。
 牛島司祭が司祭となることは御言葉と聖餐を分かち合うべき人がわたしたちに与えられたことであり、わたしたちの喜びであり感謝です。
 同時に、聖餐をもつて奉仕できる牛島司袋にとっても、更に人々の叢に出会うことのできる恵みが与えられたことであります。
 マリアが幼子イエスを自分の腕に抱いて人々に指し示す人生は容易なものではなかったでしょう。しかしマリアが「おめでとう恵まれた方。」と天使から祝福されたように、イエスを指し示す司祭の人生も困難な中にあっても豊かに祝福される働きです。この働きを担う人を主イエスは更に求めておられます。


2003年4月号

 4月号は「はばたく」巻頭に書かれた主教のメッセージをお読みください。
 「キリストの復活、わたしたちの復活」
 ある時、親しく交わりのある信徒が恥ずかしそうに、小さな声で言われました。「わたしはイエス様が復活されたことは信じます。でも自分が復活するとは信じられないのです。」八十歳の方で、主日礼拝にはよく参加し、聖書を学ぶ集いに定期的に来られ、ウイークデーにも教会に来られて様々な教会の奉仕活動をされていた方です。
 聖書には主イエスの復活されたこと、またわたしたちも復活するのだと明らかに述べられてはいます。聖パウロがコリントのクリスチャンに手紙を送り、明らかに次のように述べています。「死者が復活しないなら、キリストも復活しなかったはずです。」さらに述べています。「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死がー人の人によって来たのだから、死者の復活もー人の人によって来るのです。」
 八十歳のこの方は、再三この聖句を読み、思いを巡らしていたことと想像いたします。しかし、パウロの言葉は理解できない言葉だったのでしょう。
 パウロにとっても衝撃的なキリストとの出会いは説明できる出来事では無かったはずです。しかし、彼にとっては、この理解を越える出来事、復活したキリストとの出会いが彼の人生を決定的に変える出来事であ りました。それゆえに、パウロの語る内容はある意味では説得力を持たない話のようにも思われますが、真実の告知として語られているからなのでしょう、言葉に迫力を感じさせられます。
 しかし聞く者としては、誰でもが、途轍もない話と思う話です。信じられない話に対する人々の反応は聖書に幾つか記録されていますが、そのーつの例は、マルコの福音書一六章九節以降の信じられなかった人々の記事に見られます。
 復活の話は、殊に信じにくい話と思われても不思議はありません。
 それゆえにパウロはしつこい程に述べています。
 コリントの信徒に伝えている言葉がそうです。「キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおりミ日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたこと。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちに何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、最後に月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」以上のように切々と語りかけています。
 八十歳の教会の仲間は八年後に病の床につきました。
 無くなるニ日前に病床を訪ねましたとき、彼の顔に不安の表情は見えませんでした。彼はニッコリと笑顔で迎えてくださって、折りの時には穏やかなお顔をされていました。
 復活と言う途轍もない出来事。
 多くの人に伝えられ、多くの人に疑われ。しかし、イエスご自身が、復活の姿を五百人以上の人々に明らかにされました。
 今も、信じられない人が多く教会におられます。しかし、主イエスの約束を信じて主の復活、わたしたちの復活を信じ、歩んで生きましょう。「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべ てのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」


2003年3月号

 二月四日(火)にフィリピン中央教区のディキシー・タクロバオ主教の按 手式に出席いたしました。説教者は元中央教区のルンピアス主敏でした。中央教区への篤い思いを持って後継主教であるディキシーに対し、また出席している教区の人々に思いを込めて語りかけ、主教とはこれこれしかじかのものである、と様々な角度から話されました。そして最後に、今、按手される貴方に告げます、と言われて主イエスの語られた言葉「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネの福音書一五章一六節)をもって話をされました。
 この主イエスの言葉が告げられたとき、「そうなのか。・・・そうなのだ。」と突然に心に素直にこのみ言葉がわたしに入り込んで来ました。
 それは、もしかすると按手直前のディキシーが説教のこの箇所でしきりに額いていたことに触発されたのかもしれません。
 按手されるディキシーは勿論のこと、教区の人々も、主イエスのこの み言葉によって、中央教区への神様の御計画を受け止めることができたのではないでしょうか。
 按手式に聖霊が働いていることを実感いたしました。
 抜手のとき、主教たちの手がディキシーに置かれ、唱えられた祈りを通して聖霊が彼に豊かに働きかけられたのでしょう。礼拝堂は、彼を 中心にした聖霊に満たされた空間となっていました。
 按手式を終えた後、ディキシー主教一人が祭壇の前に残り、聖霊に満 たされた彼の手から出席者一人一人が祝福を受けました。首座主教がディキシー主教の前に腕き祝福を受け、各主教も彼の前に鞄き、出席者一同も彼から祝福を受け、祝福を受ける列はー時間経っても無くなりませんでした。


2003年2月号

 現在、管理牧師をしています宗像聖パウロ教会のクリスマス礼拝は十二月二十二日(日)にいたしました。礼拝と祝会は主イエスのお恵みを十分に味わうことのできる喜びに溢れるものでした。
 祝会が終わりましてから教会の方とー緒に入院中の信徒を訪ねました。クリスマス礼拝で聖別したご聖体を携えて病室に行きました。病室には他の人がいませんでしたので、クリスマスの聖歌を歌い、祈りをし、陪餐していただきました。
 その礼拝の間、その方は喜びを体全体で表され、涙もされておられました。その場におられた妻と娘さんは喜ぶ夫の姿、父の姿を見られて同じように涙されていました。
 そして、その場に関わることのできたわたしは幸せをー杯いただきました。
 しばらく話しているうちに別の訪問客が来られたので「今日はこれで失 礼します。また来ます。」と伝えましたらば「まだ帰らないでください」と言われましたのです。
 わたしはこの言葉をいただいて、心が温まるような嬉しさを覚えまし。 「来年また来ますから」と伝えましたら、「そんなに先ではなく・・」と言わ れ、また嬉しさを覚えました。この程度のわたしが、そのように大切な存在と思われている、その人の大切な隣人にしてもらっている、と言う喜びなのでしょうね。
 善いサマリア人の譬え話での勧めの言葉を思い浮かべました。「あなたはわたしの隣人です」と言われるような関わりを他の人と持てるように。それが永遠の命を受け継ぐことになると言われた主イエスのみ言葉が身近に感じられました。
 共に訪ねた教会の方も手を握られて帰らないでくださいと言われたときに、顔に愛と喜びを表していました。


2002年の土の器
2001年の土の器

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