2004年11月号

 最近のことでしたが、主教巡回の日に金婚式をいたしました。
 妻の長い間の祈りによって夫の堅信式が行われた日でした。妻の祈りを知っていた教会の人たちですから堅信式の喜びは皆の喜びでしたが、その上に金婚式が行われたのです。
 お二人は手を取り合って、それぞれに声を出して「幸いのときも災いのときも、豊かなときも貧しいときも、健康なときも病気のときも、あなたを愛し、あなたを敬い、あなたに仕えあなたとともに生涯を送ります。今、これを約束します。」と誓約の確認をされたのです。
 結婚五十年ですから、この言葉一つ一つは内実のあるものであったでしょう。誓約する二人の誠実さと暖かさが立ち会った教会の人々の心をも暖かにしました。
 夫が洗礼・堅信式を受けられた訳は妻と生涯を送りたい、この世を去るときも同じ所に居たいとの願いでした。
 そのように願われたお二人の幸せは周囲に伝播しまして、わたしも幸せをいただきました。
 一緒に居たいと願ってくれる人がいる幸せ。一緒に居たいと願う相手の居る幸せ。 
 このことを思い巡らしている時に、イエス・キリストの名が浮かび上がってきました。 
 イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ二八:二〇) 、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」(ヨハネ一五:四) と言われ、ご自分の名前をインマヌエル( 神は我々と共におられる、の意味) と名乗る程の方です。
 貴方と一緒に居たい、世の終わるまで共に居たいと熱い思いを持ってわたしたちにプロポーズするイエスがおられる。その幸せをいつも覚えていたいものです。


2004年10月号

 八月最後の土曜日に会計懇談会が開催されました。この会は毎年開催されているもので、次年度の予算案を検討し、更に各教会の分担金を模索する時となっています。教会の現状が紹介され、良い相互理解の場となっているだけではなく、分担金を担いきれない仲間への相互援助の場ともなっています。
 予算案の原案は、宣教合同会議において、各部長から説明される活動計画を聞くことによって立てられます。教区財政に余裕のない現状を理解した上での予算立てですので、各部長の請求は慎ましやかです。
 現状に則した予算案が立てられ、八月の会計懇談会が開催されました。
 しかし、控え目な予算であっても、受けられない九州教区の現状が会議場で示されたのです。
 これを知った時、会議場はしばらくの沈黙がありました。教区の現状が数字と言う方法によって出席者に突き付けられ、うなだれました。
 この現状は教区、各教会の礼拝、伝道、諸活動の反映であることは否めないでしょう。
 教会で最も大切な礼拝が、主イエスの恵みに感謝し、喜びをもて賛美の祈りを捧げる場になっているのだろうか。新しい人が礼拝堂に入ってきたとき、喜びの渦に巻き込まれているだろうか。
 イエスが人を愛し、人に近づき、声をかけ、関りを持ち続けたように、イエスの体であるわたしたちの教会は人々に関心を持って、積極的に近づいているのだろうか。
 人々から必要とされていないのは何故なのか。等々、頭を巡りました。
 しかし、私たちには鹿児島のフェスティバルで現した主イエスを信じる喜びと平安、主を愛する情熱と行動力そして仲間とが有ります。うなだれた頭を上げ、神と人を愛する情熱によって、委ねられている福音を人々に手渡して行けるのではないでしょうか。


2004年9月号

 GFS の全国研修会が湯布院において開催されました。
 GFS は世界のつながりをもった聖公会の女性団体であり、英国から始まりました。「互いに重荷を担いなさい。」 ( ガラテヤ六章二 ) をモットーにして活動が行われ、各支部でも、日本 GFS でも、世界 GFS でも良い働きをされています。
 今回の研修もモットーに従って、ハンセン病を患った故に重荷を負う人々を覚えての研修でした。講師は九州教区の仲間である太田園男執事。同師の話は重たいものでした。重たい重荷 ( 病 ) を無理やりに 負わせられてしまった人の苦難の中からの言葉ですから当然のことですが。病気による肉体的苦しみは勿論大きいものでしたでしょう。
 しかし病気が治った今でも、ホテルの宿泊を拒否され、故郷へ帰りたくとも、家族から拒否される等などの厳しい差別が続いています。この差別を存続させているのが私たちの社会、重荷を負わせているのがわたしたちの社会であることを自覚させられました。
 パウロは「互いに重荷を負いなさい。」と言われたとき重た過ぎる重荷を現すギリシャ語を使っていました。しかし、その重荷は他の人には負いきれないことを承知していたのでしょう。
 六章五節では「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」と言われています。「自分の重荷」と言 われる際にパウロは肩にヒョイと背負う荷物を現すギリシャ語を用いています。
 負いきれない重荷を担うことができなくとも、少なくとも他の人に負わせてしまっている重荷は取り除かなければならない。「めいめい自分の重荷 ( 責任 ) を担うべきです。」と言われた勧告を緊張して聞きました。
 太田先生が心の深いところからの信仰を告白してくださったことに感銘しました。


2004年8月号

 「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」(ペテロの手紙一4:10)
秋の信徒研修会でスチュワードッシプについて学ぶこととなり、久し振りに思い起こしました。
 スチュワードシップは日本語では上記聖句のように「管理者」と訳されます。しかし、管理者と言う言葉には何やら抵抗感を覚えます。管理される、管理する。冷たい響きが伴うのは体験からでしょうか。しかし、適切な言葉を他に見い出すことができなっかたのでしょう。
 この働きは海外の聖公会諸教会では大切な働きと認められ、教会委員会の役割、教区の役割、管区の役割の一つにもされている程です。
 わたしたちは多くの賜物を神から委ねられている者です。福音を、命(時間)を、才能を、所有物を、様々に委ねられています。その賜物を用いて、神に善しとされるように互いに仕え合う生き方。
 それが善き管理者の生き方、スチュワードシップであるとペテロは述べています。
 わたしたちには自分の生活を支える必要なものを備えられている。それだけではなく、他の人を支える賜物をも神から既に備えられている。
 このことに気付くとき、賜物を委ねられている感謝が生まれると同時に、他の人と共に歩んでいく自身も生まれてくるのではないでしょうか。
 わたしたちは委ねられた時間を用いて、病床にあっても、人のために祈り、仕えることができるはずです。途方にくれる人にキリストを紹介できるでしょう。才能を、所有物を、委ねられているわたしたちです。
 誰でもが、神と人に仕える善い管理者となれるものです。


2004年7月号

 主教室は十六畳ほどの広さで、通常は主教の執務が行われているところですが、常置委員会、宣教合同会議などが開かれる場所でもあります。  訪れる人のために部屋はいつも椅麗に保たれ、季節の花で飾られています。見て楽しみ、また香りを楽しみ、部屋に入るのが楽しみなところです。教区センターにこられる機会がありましたら是非訪ねてみてください。  今はアジサイの季節なので、淡い紫の花が部屋に安らぎを与えてくれています。ところが先日、花瓶に生けられている大きなアジサイ、小さなアジサイが両方ともにしおれ、特に小さいアジサイは頭を垂れるまでにしおれてしまいました。花を知らないわたしは、これはダメだ、ゴミ箱入りか、と思いました。  その時に「水切りすれば大丈夫。アジサイは強いから。」と言うアドバイスを聞きました。  半信半疑でした。こんなに頭を垂れていて、本当に大丈夫なのだろうか、と疑っていました。ところが朝に水切りをした花が夕方には活き活きとして、締麗な花にもどっているのです。そればかりか、翌朝には、何と、頭を垂れ、捨てられる、ばかりの小さなアジサイが首をしっかりと持ち上げ、新しい花まで聞いて見せてくれました 。  その回復力には本当に驚き、喜びました。  ルカの福音書13章の「実のならないいちじく」の醤え話が思い浮かびました。「御主人様、今年も このままにしておいてください。来年は実がなるかもしれません。」  神様はアジサイにこれ程の回復力を与えておられる。人にも、同じ回復力を与えてくださらないはずがあろうか。  響え話を通じて、主イエスが人の回復力を信じて、待っておられる様子を思い浮かべました。


2004年6月号

 わたしたちの仲間であるヤコブ武藤久太司祭が5月3日に、2ヵ月半の短い闘病生活の後、逝去されました。
 入院されたと聞きまして、病床を訪ねました。重い病気で入院しているにも拘わらず、武藤司祭はいつものように元気一杯の雰囲気でした。
 4月29日に訪ねましたときにはかなり辛い様子でした。しかし、武藤司祭がきっと喜ぶであろう事を伝えねばならないと思い訪問いたしました。
九州教区の召命黙想会が4月28日―29日と湯布院で開催されましたが、29日午前の最終セッションで武藤司祭の名前があがったのです。
 武藤司祭の名前をあげた人は同司祭が入院していることを知らない人でした。その人は「聖職に導かれるキッカケの一つは武藤司祭の言葉であった」と言われたのです。武藤司祭は「聖職としてキリストの働きを担い、人々に関わってきた。聖職として生きてきて、本当に良かった。生き甲斐を与えられている。聖職に按手されて良かった」と喜びに溢れて話されたそうです。
その喜び生きる様子、を思い起こして、その人は聖職になる決心をされたとのことでした。
 黙想会が終わって直ぐに病院を訪ね、武藤司祭にこのことを伝えました。武藤司祭は、体一杯に喜びを現していました。目を開けられず、話しもできず、体も動かせない状態でしたが、その喜びはその場にいる人に分かるものでした。
 自分の後継者が与えられた喜びを、ご家族に伝えたそうです。
 意図せず、ポッと口からこぼれるような喜びを持った信仰生活が聖職の後継者を生んだのですね。
 平安のうちに新しい人生の旅立ちをされた武藤司祭に主の祝福を祈ります。



2004年5月号

 三月末に、九州教区に関係する幼稚園教諭たちの新任研修が行われました。毎年、年度初めに、新任として聖公会の幼稚園に働く人を対象に、九州教区が主催して行うものです。この研修では、@祈りについて、A聖書について、B聖公会についての三点を中心に講話し、又一泊二日の研修ですので、大口、福岡、大分、直方、久留米と幼稚園が離れていましでも仲間であることを意識できる良い機会となっています 。  今回の研修には八人が出席し、一人を除いては、祈祷書を見るのは初めて、聖公会の名前も初めて聞く人たちでした。  話している中で、「クリスチャンになるには、何をしたらよいのですか。」と質問されました。この 質問にはびっくりしました。洗礼を受けてクリスチャンになることは誰でもが知っていることだとわたしは思い込んでいたからです。  又、この研修のお世話をするために同席していた長年幼稚園に勤務する先生からの質問にも、ハッとさせられました。同先生は小さな声で「セント・ポールとは何を意味しているのですか。」と言われたのです。セント・ボール幼稚園の仲間たちとは幾年も付き合ってきた人です。知らないことを恥ずかしそうにしての質問でした。  わたしは、つい心の中で「ごめんなさい。」と言ってしまったのです。  人の知りたいこと、聞きたいことが何かを尋ねることをせずに、自分の伝えたいことに集中して話し込んでいた自分に気付かされたからです。  教会の中にドップリと浸っているわたしは、その人の心の中を訪ねることをせず、自己満足のように話していました。  恥ずかしそうに質問した先生に「ごめんなさい」、気付かせてもらえて「ありがとう」の思いを今、 心に感じています。


2004年4月号

 4月号ははばたく巻頭に掲載された五十嵐主教のイースターのメッセージです。
 「神と和解させていただきなさい」
 「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」( コリントU5:21 )
 大斎節はイエス・キリストの十字架と復活という緊張した出来事に注目して過ごす四十日間ですので、身が引き締ります。
 しかし同時に十字架と復活の恵みを黙想する中で「罪の赦し」と「新たな出発」を許されていることを知るとき、感謝の思いが湧いてきます。
 十字架の恵み、罪の赦しを思うときに、わたしにとって原点となっている体験があります。今から二十年前、韓国、水原近郊の農村堤岩里(チェアムリ)の教会を訪問した時のことなのです。
 この教会は一九六九年四月十五日に再建のために起工式が行われたのですが、丁度五十年前の一九一九年四月十五日に日本の警察官によって焼かれた教会でした。
 一九一九年は、日本の植民地にさせられてしまっていた韓国が、独立運動を始めた年でした。三月一日にソウルで独立宣言文が発表されてから朝鮮圏内の各地に三・一独立運動が波及していきます。この独立運動を阻止しようと日本の官憲はやっきとなります。
 堤岩里の小さな村にも三・一運動押え込みのために銃を持って来ます。村の男たちは教会に集められ、全員集まったところで、教会の扉は外から釘付けにされ、教会ごと中にいる人たちは焼き殺されてしまいました。四月十五日でした。
 わたしがこの地を訪ねましたのは一九八四年。教会が再建されてから十五年目でした。
 教会の裏の小高い丘には犠牲者の遺骨が埋葬されていました。お墓の前に立ったときには、体も心もうなだれた思いになっていました。丘を降りて教会の入り口に着きましたら、大きな石版が日の前にあり、犠牲者の名前が刻まれていました。又も、うなだれて教会の入り口の一扉を開けようとしました時に、左側に石碑がありました。そこには十字架上の主イエスの言葉が刻まれていました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 ( ルカ23:34 )
 二十年前のソウル訪問は日本人の罪、人間の罪の現実を見せつけられる重たい旅でした。
 しかし、主イエスが十字架上で、人間の罪ゆえに、人間に代わって罰を受けている姿。人間の罪の深刻さ。
 それ故に、身代わりとなっている主イエスの十字架の上での悲惨な姿。悲惨な中で叫ぶイエスの一言葉「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」が切実に聞こえてきます。
 目の前で夫、子供を残酷に殺された人たちの憎しみと恨みを想像します。しかし、その人々が五十年の苦しみを通して主イエスの十字架の赦しを受け入れられたのでしょう。そのイエスのみ言葉を石碑にしっかりと刻んで、また自分たちの心に刻んで日本人と共に教会の再建が成されました。十字架の赦しによって、新たに歩み始められました。
 わたしはこの人々と神様に赦されて教会の扉を開けて中に入り脆き、機悔と感謝の祈りをいたしました。
 また、赦すことによって、恨みと憎しみから解放され新たな歩みを始めた人々を思いました。
 主イエスの十字架と復活の恵みに感謝です。


2004年3月号

 毎日の生活の中で、神様との対話をどの様にしているのか。そう思って自分の一日を振り返ってみました。恥ずかしくて書けるような内容ではないのですが、ほ、ぼ次のように過ごしています。  朝、目が覚めましたら、最初に口にする言葉は、主への呼びかけにしようと心がけまして「主よ、あなたは素晴らしい。」などと言っています。  そのあとは毎食前の感謝。そして一日の終わりに、夜ベッドに入って「主よ、ありがとうございます。」と言って眠ることにしています。  わたしが神学生のころ清里で横浜教区主教であった岩井主教と同室になったことがあります。夜寝る時になり、主教の前で緊張していたわたしは、一体どんな祈りをしたらよいのか思いわずらっていましたら、同主教は布団に入って「主よ、ありがとうございました。」と安らいだ声で言われたのです。その声にホッとさせられたことを思い出します。  毎朝、事務所に行きますと、礼拝堂に先ず座ることにしています。そして事務所、主教座聖堂の人々と朝の礼拝をいたします。聖書のみ言葉を聴き、祈りを共にします。祈るときには九州の仲間を覚え、また日本の仲間、世界の仲間、気になる出来事を思い起こして神様に願い祈るので、各地を旅して人々に会っているような忙しい時となります。朝の礼拝は少し、かしこまった礼拝です。  布団の中での祈り、かしこまった中での祈り、両方共にわたしには良いときです。  皆さんは神様との対話をどの様にされているのでしょうか。神様を「お父さん」と呼びかけて良い ( ガラテヤ四章六節 )とされたわたしたちです。気軽に、散歩のとき、風呂の中で、「お父さん」と呼びかけてみてはどうでしょうか。


2004年2月号

 一月の第一主日には東京聖三一教会で説教者として招いていただき、礼拝に出席することができました。前に牧師をしていた教会ですので、ほとんどの出席者の顔を覚えており、説教する際には目と目を合わせて話をし、話を聞いてもらい、実家に帰ったような安らぎと喜びを覚えました。
 一人ひとりの状況をまだ覚えていましたので、礼拝後の話も、家族のこと、病気のこと、仕事のこと等、一人ひとりとの関わりを確かめ、また深める交わりとなりました。親愛の情をもって話がされ、中には、涙を持って話される中で、わたしは牧師冥利を味あわせてもらいました。
 しかし、現在、教会の牧師ではないわたしは、寂しさを少し感じるのです。牧師として任命・派遣されている司祭が思いを込めて牧会しているところに入り込むわけにはいきません。牧師の依頼が無いにも拘らず訪問したとなれば、それは越権行為となってしまい、派遣した司祭を信頼していないしるしともなってしまいます。故八代斌助主教が牧会できる教会が無かったら寂しくてしょうがない、と言わ、神戸聖ミカエル教会の牧師であり続けたと聞いていますが、今、司牧する教会を持たないわたしには八代主教の言葉に共感を覚えるのです。
 今、わたしが行っています牧会は主教座聖堂での毎朝の礼拝において各教会を順次思い起こして信徒・聖職の顔を思い浮かべて祈ること。また、毎月一度の教役者逝去記念礼拝において先達の教役者を覚えて祈ること。そして主教巡回の際に、主の慈しみに感謝する聖餐式を皆と共に行うことです。
 顔と顔を合わせる機会が少なくとも、毎主日の代祷で祈られていることを思う時に、霊的な交わりを感じ、平安を覚えるのです。


2003年の土の器
2002年の土の器
2001年の土の器

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日本聖公会九州教区