2005年11月号

 最近、初めての人との出会いがありました。
 その人とは研修会で会話いたしました。引っ込み思案な自分なので、手を挙げて自ら会いに行くことは滅多にないのですが、この度は意を決して会いに行き、忘れられない出会いとなりました。
 この人の話し、証しはわたしの信仰に、後々、ジワーっと影響を与えてくる様なものでした。 
 わたしには出来ない証しでした。その人の人生ゆえにキリストがその人に近付き、愛し、励まし、希望を与えられたのでしょう。それを受けた彼は感動を目に現しながら話してくださったのですが、まさにイエス・キリストによって生命を与えられた、証し物語でした。
 イエス・キリストによって本当に救われたと感動を持って話す人の話し、その姿は、聞く者にも感動を与えます。彼から話を聞いた、その場にいた人たちもイエスの恵みを彼からお裾分いただき心が満たされて家路につきました。
 イエス・キリストの恵みの豊かさは、わたしたちの想像を遥かに超えた深く、大きく、広いものなのでしょう。その様々な豊かさに触れたときは、新鮮な驚きと感動を覚えます。
 今回、この人との出会い、またキリストの恵みとの出会いは、人生に期待するものを感じさせられました。
 詩篇23・6「神の恵みと慈しみは、生きている限り、わたしに伴い、わたしは永遠に主の家に住む」
 今後、新しい人との出会いはキリストの新たな御心との出会いの時と思い、少し積極的に関わりを持って行きたいと思います。感謝・賛美の祈りを、更に喜びを持って捧げるために。

2005年10月号

戦後六十周年を迎えて

 戦後60周年にあたり神戸教区では広島被爆60年の記念礼拝が教区主催で行われ、隣接教区である九州教区主教のわたしも招待されました。
 礼拝に先立ち、広島平和記念資料館を訪ねました。そこには被災者の状況を示すジオラマが置かれていました。しかし現実はもっと地獄の状況であり、人形として置くには余りにも残酷なのでこの程度なのです、と説明されたガイドの言葉は印象的でした。
 資料館の入口には教皇ヨハネ・パウロ二世が広島訪問の際に述べられた言葉が刻まれていました。「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の破壊です。戦争は死です。」
 記念礼拝の会場である広島復活教会では先ず、二人の教会員により証しをしていただきました。
話をされるお二人は当日の様子を鮮明に思い起こしていたのでしょう。人を焼く臭いまでもが鮮明に思い起こされると言われ、幾度も声を詰まらせて話し続けられました。わたしは、その人が辛さの余りその場に倒れてしまうのではないかと心配する程の様子でした。
戦争の惨状を思い起こして語るということは、単に知識として思い起こすのではなく、あの地獄の苦しみを心の中に再現して、話すことと成るのでしょう。証しをお願いするということが、いかに辛いことをお願いしているか実感いたしました。
 翌朝8時15分、鐘の音によって黙祷し、「過ちは繰り返しません」と石に刻まれた言葉を思い起こしつつ、イラクの戦地にいる人々を思い浮かべました。
 8月9日には長崎聖三一教会において原爆投下11時2分に黙祷し、60年前、その時に居合わせた人々の姿を様々に想像いたしました。礼拝後、同教会の信徒である宮本文甫(のりとし)氏が原爆により妻と5人の子供を次々に亡くした状況を書きとめた原爆受難記が読まれました。被爆したご本人も3年後には子供たちと同じ症状となって亡くなられました。その受難記を読む人がしばしば声を詰まらせる程の辛い内容でした。
 原爆はまさに人間が作り出した地獄の兵器です。
この地獄を与える兵器を正当化できる理由がどこに有るのでしょうか。人類と原爆は共存できないと叫ぶ被爆者の声は「核による平和」を言う人々に強く再考を訴えています。
 地獄を通って、やっと見出した人間の進むべき道が戦争を放棄して、世界の人々と共に生きる苦労を分ち合う道だったのではないでしょうか。第二次世界大戦の反省の上に、世界の人々はあるべき人間の歩む道を求め、武力によらない道を願ったのではないでしょうか。
日本国憲法第九条は人類の歩むべき理想の道、日本人が進む道として決断し、今日まで日本人が維持してきた道です。
 それ故にアジア諸国によって日本がもはや武力によって歩む国ではないと認知され、60年間戦争をしない国として、今日を迎えることが出来たのではないでしょうか。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

2005年9月号

 七月の休日(海の日)、唐津湾に行き、遊覧船に乗りました。海の日に海を楽しんだのですが、遊覧船の観光案内図の中に、「津田治子文学碑」と記されている小さな文字が見えました。地図の中には幾つもの観光スポットが記載されていまして一つ一つを読むのは面倒なことです。しかし、津田治子文学碑については引き寄せられるように見えていました。まるでゴチック体で書かれているかのように見えていたのです。
 津田治子は唐津湾に沿っている町、呼子の出身です。治子は十八歳の時にハンセン病を患い回春病院に入院し、ライト女史に出会い、後に恵楓園に移り聖公会の信徒として生活しました。病気ゆえに襲われた心身ともなる苦しみは筆舌に尽くし難いものであったようです。その苦しみの深さは余人の想像を超えるものでしょう。アララギ派の歌人である治子は、信仰によって苦しみを受け入れた思いを歌っています。
「現身にヨブのしあわせはあらずともよししぬびてゆかな」
 更に代表作とも言える次の歌はクリスチャンとしての深い信仰から溢れ出た証しとも言えます。
「苦しみのきはまるときにしあわせのきはまるらしもかたじけなけれ」
 遊覧船を下船して津田治子文学碑はすぐに探すことができました。海を見下ろす高台にある呼子ロッジの庭にひっそりとありました。文学碑の左側からは呼子の町を見渡すことができます。治子は亡くなる三年前にその町を訪ね次のように歌っています。
「父の郷わが生まれたる松浦郡呼子の町がみえて恋しき」
 以上の三首が刻まれてある文学碑に手を触れながら、治子の切なさと信仰に触れた思いがいたしました。人知れず昔も今も主を賛美する人。この様な信仰の先達に励まされます。

2005年8月号

 毎朝の祈りの中で、あの人この人の顔を思い浮かべ、多くの人と出会います。祈りの中で九州の各地を訪ね、また日本各地、アジア各地、他の国をも訪ねます。更には、この世での働きを終えて、主の御顔を直に仰ぎ見ながら新しい人生を歩む人をも思い浮かべます。
 このように様々な人を思い浮かべるのですが、特に、心にかかるのは、困難な状況の中にある人びとです。
 その人が落ち込んでいる姿を目にし、耳にするとき、一緒になって落ち込んでしまうこともあります。何故、この人(人たち)がこんなひどい人生を歩まねばならないのだ、とその不条理さに腹立たしく思うことがあります。
 また、その状況に対して、なす術もない自分に無力感を感じることがあります。
 病ゆえに困難な状況にある人には掛ける言葉もありません。ただ、手をとり、その手を擦り、「祈っています」と声を掛けるだけです。
 イエスの時代にも、困難を生きる人とその人を囲む心優しい人の姿が描かれています。中風を患っている人を床に乗せてイエスの前へ運んで来る人々の様子が記されています。(マタイ9・1以降)
 できる限りのことをして支えたいと願っていても、なす術がない事があります。今、できることは、イエスの前に大切な人を運んで行くことだけ。しかし、このことは大きな助けと成って行くのではないでしょうか。
 わたしたちには出来ないことでも、イエスにはできる。イエスは一緒に悩み、苦しみ、叫び、一緒に死んでくださる方。そればかりか、栄光ある新しい命、復活の命を与えてくださる方。これはわたしたちの信仰です。
 絶望せずに、祈りによって人々をイエスの前にお連れしましょう。

2005年7月号

 最近二度、韓国を訪問いたしました。4月にはソウル教区の次期教区主教按手式に参加し、また5月末には大田教区の創立40周年記念礼拝に出席しました。
 大田教区は九州教区と姉妹関係にあった教区です。1974年から1978年の4年間公式に交わりを持ち、その前後を含めて信徒・聖職・婦人会・青年などが交流し、約8年間関わりました。
  この関係があったからでしょう。大田教区の初代教区主教であるリチャード・ラット主教が教区主教の働きを終えて英国に帰られる際に、同主教の胸十字架を当時の九州教区主教である久保渕主教に贈られました。
 この度、訪韓するに際し、わたしはこの胸十字架をして参加し、大田教区の人々に紹介しました。「ホー」と言う驚きと喜びの声が上がり、また、この十字架にキスをする聖職もおられました。22年前に大韓聖公会を訪問しました時と、今の大韓聖公会は印象が全く違っていました。
 大田教区もソウル教区も教会数において、信徒・聖職の数においても、霊的にも、働きにも、別人ではないかと思う程大きく成長しています。
 皆の努力があったことは勿論ですが、キリストの心を心として教会生活を続けてきた結果が今の姿となっているのではないかと思われるのです。
 「(イエスは)群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9・36)
 大韓聖公会は韓国社会から認められる程に、弱者への関わりを様々な方法で積極的に行っています。その結果、益々霊に満たされて今の大韓聖公会があるのではないかと思われるのです。教会成長を常に意識しつつ、社会の弱者に目を向ける大韓聖公会の姿勢に注目させられました。


2005年6月号

「若者とおとめたちよ、主をたたえよ 年老いた者、子供たちよ、主をたたえよ」(詩篇148:12)

教会の礼拝中に赤ちゃんの声が聞こえてくるのは良いものですね。泣き声も喜ぶ声も笑顔も、存在そのものが礼拝を豊かにしてくれます。
 また、高齢者が教会に参加する姿も良いですね。立ったり座ったり、ページをめくったりするのが苦手であっても、一緒に礼拝する姿は、最も大切な方は何方(どなた)かを指し示す姿です。「日曜日の礼拝に出席するために体調を整えています。」と聞きますと一緒に礼拝する者も貴重な時を共有できた喜びを感じます。
 教会は誰でもが慈しみ深い神の前に招かれ、主の恵みを与えられている実感のうちに喜び、感謝するところですね。
 若者もおとめも、年老いた者も子供も主を賛美する当事者として招かれています。
 先日、教会で新鮮な思いを体験しました。牧師が赤ちゃんに対して、若者に対し、高齢者に対しても名字ではなく名前で呼んでいたのです。70代、80代の方々にも名前で呼んでいたのです。
 名字で呼び、呼ばれる中で数十年過ごして来たわたしにとっては驚きでした。わたしの年代以上の者が名前で呼ばれることは滅多にありません。しかし教会の仲間は親しい家族同士であると思うとき、それもありかな、と思いました。
  「おばあちゃん」、「おじいちゃん」等と教会でも呼ばれる時があります。何か、属性で見られているようで、わたしそのものが見られていない感じがしますね。
  外国のように名前を呼び合うことが良いとは限りませんが、教会に自分の居場所があると確かに感じられる交わりがあるのは嬉しいものです。
  また教会に行きたくなります。


2005年5月号

 復活前主日の礼拝では主イエスが十字架につけられて息を引き取るまでの出来事がマタイの福音書によって読まれました。読まれる言葉を聴いている時に足元が揺れ動く感じがいたしました。
 福音書を朗読していた堀之内司祭はいよいよ自分の体に不調をきたしたと思われたそうです。しかし、福音書を読んでいる最中に命が尽きるならばこれは本望と思って朗読されたそうです。このことを後で知らされて感動いたしました。
 福岡で起きた震度6の地震の影響でした。
 福岡の状況を心配して帰路につきましたが、連休中に行楽のために九州各地を巡っていた人たちも急遽、帰路についたのでしょう、大渋滞でした。通常ならば所要時間3時間弱のところを6時間半かかりました。しかし事情を皆が知っていたからでしょう、粛々と運転していました。
 携帯電話による各教会への安否問合せは全くできず主教館に帰ってやっと電話が繋がり、教区の人々、建物に大きな被害の無かったことを知りホッとして主に感謝いたしました。
 その夜から電話の問合せを沢山いただきました。また安否を問うメールを、更に手紙をいただき、九州の各地、日本の各地、また韓国、フィリピン、アメリカ、オーストラリアなどからも問合わせを多数いただきました。  
 心配と何か必要なことがあれば伝えて欲しいとの温かな言葉でした。
 地震によって一瞬にして被災した人々の嘆きと困難を思いますと祈らずには居られません。  
 しかし命を懸けて福音書を読まれた老司祭の心、福岡の家を思い直ぐに帰路についた人々の思い、仲間を心配して直ぐに連絡して来た人々の心に触れて熱いものを感じました。この場をお借りして福岡の人々への心配と祈りと援助のお申出に感謝いたします。


2004年の土の器
2003年の土の器
2002年の土の器
2001年の土の器

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日本聖公会九州教区