教区報「はばたく」に掲載のコラム |
2006年12月号『無痛分娩』という言葉を聞いたことがある。出産時に『産みの苦しみ』を和らげる人工的な方法だ。一方自分のお腹を痛めた子に対する母親の思い入れは大きいとも聞いた。貧しいマリアは悪条件の中でイエスを誕生させた。イエスがまだ幼子の時やがて「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」との十字架上での死を予想させるような予言をこの母は聞く。日本のクリスマスのお祝いは年々教会の外に広がり、明るく華やいだものになっている。神の栄光の代わりに電気の光とクリスマスソングがあふれてお祝いされる幼子イエスもスター扱いをされる。そこには人間の苦痛、苦悩、悲しみ、涙などは何にも感じられない。街の中ではクリスマスの教会的お飾りは25日で撤去され、代わりにお正月の神さま(歳神)を迎える門松が置かれる。わたしたちを『滅び』の中から『命』を救い出し、そして『恵み』と『喜び』に満ちさせてくださるこのお方をわたしたちはしっかりとした帰依の心でお迎えしたい。(中村) |
2006年11月号学校を卒業して自分の給料から初めて『月約献金』をしたときの晴れがましさと恵まれた気持ちになったのを思い出す。娘がこの春就職した。教会に決まった額の献金をするように早くなってほしいと祈っている。旧約聖書には『初物』あるいは『初穂』で収穫の感謝をすると定められている。かつて先祖がヨーロッパ大陸から入植して一年後、開拓者たちは必死に開墾の労苦をして収穫した最初のトウモロコシを神さまに献げ感謝した。米国の『感謝祭』はこうして始まった。収穫感謝の季節、改めて『神さまへの感謝』について思いめぐらしてみたい。「すべてのものは主の賜物。わたしたちは主から受けて主に献げたのです。」と 聖餐式ごとにわたしたちは祈っている。イエス様に救われ福音に生かされ恵まれている者として、日ごろどのような感謝を献げているのか反省してみたい。一年を締めくる感謝の時、教区会で二人の方が司祭の職に献身しようとしている。(中村) |
2006年10月号憧れの『縄文杉』と対面した。朝四時起床、標高千三百メートルの所まで屋久島を登った。樹齢千年以上を屋久杉という。昔この杉の正目葺き板は米に代わる年貢で藩に納められた。斧に代わり大型チェーンソウが登場しトロッコ線路が敷かれ屋久杉は大量に伐採され、良質高価な建材とされた。今、屋久杉が自生している地帯は世界遺産に登録されている。五千年もこの地に生きている木や命を育む自然の尊さに世界の人々が気づいたのだ。地球が何億年もかかって蓄えた化石燃料の石油を瞬く間に人類は使い尽くそうとしている。現在はこれに代わる燃料開発が人類の急務だ。『剣を打ち直して鋤きとし槍を打ち直して鎌とする。』(イザヤ2・4)。戦争の武器のために、国防兵器のために信じられないくらいのお金が使われている。『一人の命は地球より重たい』という気づきを多くの人が持てば、世界のお金の使い方が随分変わるのにと多くの年輪を刻んだ木を見て思った。(中村) |
2006年9月号我が九州教区第五代主教パウロ久保渕豊彦師父が天に召された。神が一人の人をこの世に生まれさせ聖職として召し出し、大阪の司祭から九州教区主教としてお与えくださったこと。師父の導きや牧会そして暖かい交わりなどを教区の皆で感謝した。九州教区葬後の記念会での久保渕光子夫人の挨拶に感銘を受けた。退職後二十四年間の長い間、久保渕主教が『たえず九州の諸教会と人々とを憶えて祈って』おられたとご紹介くださった。最後にご高齢の夫人自身が明確な言葉で『今後も九州教区の働きを通して神さまがご栄光を現されるように祈っています。』と教役者夫人の鑑のようなお言葉をおっしゃったこと。『聖徒の交わりを信じる』という信仰箇条があり、これによってわたしたちの祈りの生活が豊かにされている。数の多少ではなく目に見える教会員も目に見えない天の全会衆も、わたしたちは共に祈り支え合いながら主を賛美しつつ主の御心を行おうとしている。(中村) |
2006年8月号幼稚園の月間テーマで『ノアの約束の虹』(創世記9章13節)について書いた。当地でも梅雨末期の激しい雨が降り我が農園は一時水浸し、少しだけノアの洪水を思い起こした。最近は梅雨のさまが変わり長期小雨が連続するタイプでなく天のバケツをひっくり返したような激しい雨が降ることが多くなった。地球規模の異常気象が起こっている。雨ばかりでなく地球温暖化で小さな島が水没、洪水状態になっている。極地の氷が溶け海面水位が上昇している。1990年世界聖公会が掲げた教会の宣教課題の中に『地球環境の問題』が加えられた。わたしたちは宇宙船地球号(箱舟)乗組員としての自覚を持ちたい。環境の保全、汚れを清める改善、乗組員同志の平和共存、共生等の努力。自分に出来る事を行い、次の世代にこの美しい舟を遺す業に参加したい。虹を見て『けっして滅ぼさない』と言われている御心を思いたい。(中村) |
2006年7月号ひと昔前の事。某派教会では信徒が単独で聖書を読むことを禁じたそうだ。勝手に解釈して間違わないように教会の指導を受けながら読むべきだ、と。『主教を囲む集い』が教区で開かれた。会のあと教役者不足の中で各教会は「何をしてこなかったのか」、「今後何をしていかなければならないのか」との問いに宣教局長に答える宿題をもらった。定住牧師のいない教会の女性信徒が次の言葉を筆者に向けた。「今まで『忠実な良き信徒』として牧師に従う教育を受けてきたのに、急に『あなたは何ができますか』と問われても困る」と。この翌日は『良き羊飼いの主日』、教会では牧師を養成する神学校のために代祷と献金をささげた。当日読まれたヨハネ福音書十章のイエス様の『よい羊飼いのお話し』が即ち牧師と信徒のたとえだとする伝統的解釈は今の状況にあてはまるのか考えさせられた。そして『主教を囲む集い』で『御言葉に問う』時間が少なかった事は残念だった。(中村) |
2006年6月号ペトロが教会の働き人へ召されていく言葉について改めて考えさせられた(ヨハネ福音書二十一章)。主の十字架の前夜、弟子の足を洗う場面でイエスは「世にいる弟子達を愛して、この上なく愛し抜かれた」と記されてある。一方逮捕されたイエスの弟子であると指摘されペトロは「違う」と言ってしまう。他の福音書では「わたしはこの男を知りません」と誓うように強く言い三度否定した時にイエスの予告通り鶏が鳴いたと記されている。復活のあと他六人の弟子との朝食の車座の中で主イエスは「この人たち以上にわたしを愛しているか」とペトロに問いかけた。同じ問いを三度聞かれた時ペトロは「悲しくなった」。おそらく「愛し抜かれた主の愛」と自分の弱さを思い起こしたのだろう。「主よ、あなたは何もかもご存じです」と信仰告白したときからペトロは「主による罪の赦し」を伝え共におられる主の力をいただき「イエスの羊を養い飼う」働き人となった。(中村) 2006年5月号5月は神様の新しい創造の季節。若葉の間を通る風は聖霊の息吹。わたしの周りには『老いてなお元気印』の人が多い。先日も「先生と同じ場所で、近くに居るだけでパワーをいただく」と高齢の我が教会幼稚園長に研修会参加者が発言していた。ヨハネ福音書四章のヤコブの井戸でのイエス様の御言葉を思い浮かべた。昼の頃主は井戸の側に座り一人の女性と話をされた。その後弟子が昼食を差し出したとき主は言われた「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と。世の中では子どもに対する「ゆとりある教育」の策を教育者たちは考え、高齢者には「生き甲斐ある生活をしてほしい」と福祉に携わる人たちは声を掛けている。しかし言われている分だけ人々が生き生きしているか疑わしい。人には神様との交わりと御心に対する責任感が必要。主イエスとともに神の霊の追い風を豊かに受けて進んでいこう。(中村) |
2006年4月号聖徒たちが互いに助け合い、もてなすことの大切さが新約聖書にたびたび出てくる。苦しい人生途上でそのような「優しさ」に出会い、その背後に霊的な存在を感じ信仰への導かれる人が多い。今の時代にあっても「いやし系」を求める声が多い。教会の「もてなす」力がどれだけ発揮できるかということが1つの宣教課題といえる。フィリピノ・ホスピタリティを経験してきた。地方の小さな村にゆき建設途上の教会堂の階段と花壇をセメントブロックで造る作業に参加した。宿泊は民家。朝起きたときから寝るまで「24時間的おもてなし」をいただいた。フィリピンの村の単位はバランガイという船をあらわす言葉。遠い昔1つの船でやってきた人の集まりを意味する。おおよそ500メートルの道沿いに赤ちゃんからお年寄りまでの人と犬、猫、鶏、牛、馬、豚の動物が同居してまるでノアの箱船状態。その箱船の中で受容され、もてなされる経験はわたしたちの大きな学びだった。(中村) |
2006年3月号むかし友人に「どう、忙しい」と聞くことがあった。自分がそれをされると「ひまにしているよ」と答えるのをはばかる気持ちがあることに気がついた。もともと「勤勉は美徳」とどこかで考えていたのだろう。「忙しい」ことに慣れ、空白の時間にテレビやラジオやその他のオーディオのスイッチを入れなければ落ち着かない自分がいることもあった。東京教区のある教会で清々しい経験をした。初めての教会なので陪餐許可のために三十分程前にいった。ところが当日司式の司祭様はすでに聖所の席に座りキャソック姿で黙想しておられた。礼拝堂内の会衆席でもその時間からあいさつの声など聞こえず、聖書や祈祷書にしおりを入れることや黙想で皆が時を過ごしていた。この教会では主日に皆が祈りの時間を大切にしていると感じた。「神様と共にいる」ことを意識して時間を持つこと、すなわち祈りの時間の大切さにこのごろはわたしも気づいて、毎日黙想の時間を持つようにしている。(中村) |
2006年2月号福音書はイエス様ご自身が書き遺したものではない。イエス様の物語と言葉は信仰を持った人が口から口へ伝えて、後に書き記された。今は『印刷屋さん泣かせの時代』といわれている。ワープロやパソコンの普及でお手軽に文章や写真や絵を造ることが出来る。ボタン一つですぐにコピーが出来るし大量に印刷することも可能だ。これらに関連して『偽物事件』が増加していると思う。有名大学教授の論文盗用やデーターねつ造、偽造事件が各所で起こっている。ファッションの流行もコピーを促す商売人の作戦といえる。昨年の年末、お寺にクリスマスイルミネーションが輝いているのを見て、流行をまねるセンスについて考えさせられた。わたしたちにとって大事なことは『ほんまもの』伝えることだ。イエス様の救いの物語と言葉が自分の中に『受肉』しているかどうか、そして伝える器となっているかどうかで、わたしたちが『ほんまもの』か『偽物』かがわかる。(中村) |
2006年1月号このごろお葬式のやり方が変わって来つつあると聞いた。以前のようにお坊さんを呼ばなくなり『お別れの会』や何もしないで済ませることが増えてきたとか。理由は経費節約。そういえば『教会的なもの』を省いた年末の風物詩のような日本のクリスマスとか結婚式場チャペルでの挙式等のことを考えると、今のお寺や教会が人々の日常的な宗教的生活や『救い』についてあまり期待されていない事が伺える。新しい年を迎えた。今年の聖餐式聖書日課はB年でマルコ福音書を主に読んでいく。この福音書は『荒れ野』の場面から始まる。マタイやルカには、いわゆる前史があり三占星術学者の物語や受胎告知や家畜小屋での出産場面はクリスマス物語として寒い冬にほのぼのとした雰囲気を醸し出している。一方『荒れ野』は人間の無力さや思い通りに出来ない現実を人に教え、『福音』をどう受け止めているか問いかけてくる。教会の福音信仰の質について、今、考えるときだろう。(中村)
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