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教区報に毎月掲載されるルカ武藤謙一主教のメッセージ
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2014年バックナンバー

2014年12月号
『エッサイの株からひとつの芽が萌えいで』

 教会の暦は降臨節を迎えましたが、最近一冊の本をいただきました。
『エッサイの木・クリスマスまでの二十四のお話』という本です。
中世の時代まで、教会には「エッサイの木」があり、イエス様の家族の歴史が、木や石やステンドグラスに描かれていたそうです。
そしてそこに描かれている箱舟、杯、カラス、はしご、天使、星等のシンボルを見ながら、文字を読み書きしない人たちに対して旧約聖書からイエスの誕生までの物語が語られたのだそうです。
この本には教会で「エッサイの木」に一つずつシンボルを彫る老人と、毎日やって来る少年のお話が二十四あり、アドベントの期間中一日に一つずつ物語を読めるようになっています。
小さな窓を一つずつ開けていくアドベントカレンダーや飾りを一つずつ加えていくアドベントリースなどと同じように、クリスマスを楽しみにしながら待つために、小さなお子さんがおられるご家庭や日曜学校の子どもたちに是非お勧めしたい本です。

 ところでエッサイですが、彼はダビデ王の父親です。
預言者イザヤは「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊。」(イザヤ書十一章一・二節)と、エッサイの株から出てくる芽、そこから育つ「若枝」が、主の霊に導かれてイスラエルの民を治めることを預言しています。
彼は弱い人々、貧しい人々の奪われた権利を回復し、彼らを苦しめている人びとには厳しく裁き、正義と公正を実現させ、「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」平和な社会を築く者として語られています。
キリスト教会はこのエッサイの株から出る芽、そこから育つ若枝こそが、神の独り子救い主キリストのことであると理解してきました。
しかしダビデの系統であることを表現するのに、なぜ誰にでも分かりやすい「ダビデの株」と言わずに、「エッサイの株」と呼んだのでしょうか。
ダビデはイスラエルが最も豊かで繁栄した時代の力と富と指導力の故に偉大な王であり、また理想の王でもありました。
これについて本田哲郎神父は「イザヤにとってのダビデの偉大さは別のところにあったようです。
それは、彼の出自の貧しさ、身分の卑しさ、絶えずサウル王から追われるという不安定さ、王となっても信頼する身内から裏切られるという、相次ぐ苦しみの中から〝立ち上がる〞偉大さでした。

事実、ダビデを〈エッサイの子〉と呼ぶのは、侮辱を表すことでした(サムエル記上二〇章二七以下など)。」とその著書に記しています。
「エッサイの株」という表現は、繁栄や権力、力強さではなく、貧しさ、身分の低さを思い起こさせる呼び名なのです。

 救い主イエス・キリストの来臨を待ち望むわたしたちは、このような「エッサイの株」から萌え出た芽、そこから育った若枝であることを大切にしたいものです。

『エッサイの木・クリスマスまでの24のお話』
(ジェラルディン・マコックラン著/沢知恵訳/池谷陽子絵/日本キリスト教団出版局/1800円+税)

2014年11月号

 お見舞いの帰り、時間の都合でタクシーに乗りました。
運転手はわたしより十歳くらいは年配と思える女性の方でした。
子育て期間を除いて長年タクシーや子どもの送迎バスの運転手をしているとのこと。
タクシーの運転手になるために二種免許を取られたのは二十一歳の時だったそうです。
今ではタクシーだけでなく、バスやトラックなど大型自動車の運転手をしている女性も珍しくありませんが、その当時はまだ女性で二種免許を取る人は少ない時代のことです。
教習所には通わずに直接試験場に行って検定試験を受けるのですが(私も自動二輪の免許はそうして取りました)、何回受けても不合格だったそうです。
自分では幅寄せやクランクも上手にできているのに何故不合格なのか、わたしより時間もかかる人でも合格しているのに、わたしが女性だから不合格なのかとも思ったそうです。
それで六回目に不合格だった時に試験官に「何故わたしは何時もいつも不合格なのか」と聞いたのだそうです。
すると試験官は「コップに水を入れて座席に置き、その水がこぼれないように運転する練習をしてみなさい」と答えたのだそうです。
そう言われて彼女は、技術が優れていて早く上手に運転できることよりも、安全に運転できることが大切だということに気がつかされたとのこと。
七回目の試験に見事合格し、夢だったタクシー運転手になれたのです。
以後長い運転手歴のなかには冬の雪道で子どもたちを乗せていてひやっとしたこともあったようですが、無事故で今日まで運転手を続けてこられたようです。
今でもお客様の命が一番大切であり、安全が第一と心得ておられました。
町がまだ華やかだったころの話なども伺いながら、無事に最寄りの駅に着くことができました。

 タクシーを降りてからもその話が妙に心に残っています。
わたしたちにとって大切なことは何なのか。
彼女にとって早く上手に運転することよりも乗客の命が何よりも大切なように、わたしたちキリスト者にとって、キリスト教会にとって大切なこと、最優先なことは何でしょうか。
わたしたちはそれを勘違いして別のことを第一としていないか、何時も考え確認しつつ歩みたいものです。

2014年10月号

 何時もは匿名を認めないカトリック新聞に匿名の投稿が掲載されていました。
十二年前に原因不明、治療法も分からない難病にかかり入院しておられる方からです。
その方はご聖体を頂くことが唯一の希望であり、慰めと感じているのですが、教会に行けなくなっても誰も関心をもってくれず、神父に手紙を出しても無視されたとのこと。
「ご聖体は病人にとって魂を癒すだけでなく、肉体的な痛みが軽減されるとか、動かなかった体が動くようになったとか、そういう癒しも与えてくれるのです。」と、ご聖体に与かることを望みながら十二年間で数回しか頂くことができなかったそうです。
「神父様の大切な仕事の一つは病者訪問とご聖体を授けることだと思いますが、違うでしょうか。
神父様は忙しすぎて、電話を掛けても連絡がつくことはめったにありません。
いつも留守なので、しんどい体で電話をする気にもなれず、ただ痛みをこらえて横になってしまいます。
忙しい神父様を助けるよう、信徒の皆様にもお願いいたします。」とこの方は訴えておられます。

 この投稿を読んでいて大学時代の友人Sのことを思い出しました。
彼は大学を卒業後、地元の精肉会社で働き、結婚して二人の子どもにも恵まれ幸せに暮らしていました。
近くに来たからとお土産をもってわたしの両親を訪ねてくれたこともあり、わたしも彼の家族を訪ねたこともありました。
その後年賀状のやり取りだけが続いていましたが、ある日彼から手紙が届いたのです。
読んでみると家族と離れて一人になり、また仕事も辞め、これからどうしたらよいか何も考えられない、というような内容でした。
しかしわたしはすぐに返事を書くこともせず、またすぐに連絡を取ることもしなかったのです。
その後もその手紙はずっと持っていました。
随分時を経てから手紙の住所を訪ねたのですが、すでに彼の所在は不明となり、家族にも会うことができませんでした。
すぐに連絡しなかった自分自身が情けなく、またSに申し訳ない気持ちで帰ってきたことを覚えています。
Sが今、どこで何をしているか分からないままです。
Sのことは心の古い傷ですが、わたしが覚え続けなければならないと再確認させられました。

 投稿を読んでそんな神父様もいるのかと思いましたが、わたしにとって他人事ではありませんでした。

2014年9月号

 今年も七月二十二日から福島の幼稚園の親子保養プログラムが長崎県の高島で始まりました。
今年は十一家族四十四名の方々が高島に来てくださいます。
そして教区内から延べ人数で四十名を超える皆さんがサポーターとして奉仕してくださいます。
このことを覚えてお祈りくださる方々、食品などを献品してくださった方々も含め、多くの皆さんのお支えと協力によってこのプログラムが実施できることを嬉しく思います(皆さんがこれをお読みになるころには無事に終わっていることでしょう)。

 短い期間でしたがわたしもご一緒させていただきました。
「専門家の方のお話しを聞いても、これが正しい結論というものはなく、最後は自分自身で判断しなければならないのです。」
「福島から避難された人たちも、福島に留まっている人たちも、それまでの絆が切れてしまいました」。
そんなお母さんのお話しを伺って、放射能汚染によって今も、そしてこれからも多くの人たちが悩み、不安を抱え、痛みを感じながら生活していかなければならないことを改めて感じさせられました。

 教区の東日本大震災被災者支援室では、各教会の信徒の皆さんに読んでいただくために「原発問題についてのQ&A」という冊子を配布しました。
この冊子の最初の頁に【はじめに】があり、「様々な意見が教会にあるのは当然です。
中には、原子力発電に反対ではない方もおられるでしょう。
しかし、すべての人々に関わるこの問題の性質について学び、議論を深め、キリストの福音の立場とは何なのかを話し合うことはとても必要なことではないでしょうか。」とあり、「どうぞたたき台として利用してください。」と結んでいます。
この冊子が教区内のお一人おひとりの手元に届き、読まれ、話し合われることを願っています。

2014年8月号

 「沖縄週間・沖縄の旅」と翌日からの主教会のため久しぶりに沖縄に行ってきました。
十五年戦争で地上戦を戦った沖縄では二十万人以上の人々がその尊い命を奪われました。
(そのうち十五万人以上が非戦闘員でした)。
その悲しみや痛みは六十九年を経た現在でも癒えることはありません。
また百人の子どものランドセルを一人の子どもに背負わせていることに例えられるように、在日米軍基地の多くが沖縄に集中し、沖縄の人々の生活、安心、安全を脅かし続けています。
今回、辺野古を二度訪問しました。
小さな舟に乗って海上にも出てみました。
辺野古周辺の海は美しく豊かな命が生息する海です。

ジュゴンやウミガメの餌となる藻場があり、サンゴ礁の周りには熱帯魚も生息しています。

 七月一日、安倍政権は集団的自衛権行使容認の閣議決定をしました。
平和憲法の精神を根本から覆すものです。
それと時を同じくして辺野古沖の立ち入り制限区域が拡大され、基地建設のためのボーリング調査の準備が目に見えるかたちで始まろうとしています。
日本の国が戦争のできる国に大きく変わろうとしている今、わたしたちは主イエス・キリストの福音を信じる者としてキリストの平和がこの世界に実現することを願い祈り、またそれぞれのできる仕方でその思いを表していくことが求められています。

 今月は広島原爆記念日、長崎原爆記念日、終戦記念日を迎えます。

長崎県の高島では福島県から親子を迎えるリフレッシュキャンプも実施されます。
神様によって造られたすべての被造物が、その命の尊厳を保つことができるよう平和の器として、小さくても確かな一歩をもう一度歩み始めたいものです。

 辺野古で新基地建設阻止行動に関わるキリスト者の女性の「わたしには、権力もない、お金もない、力もない、経験もない、全く無力です。でもこの無力さでもって諦めずに粘り強く平和の実現に向けて歩み続けます」との言葉が、今もわたしの心の中で響いています。

2014年7月号

 すでに教区内ではご存知の方も多いかもしれませんが、久留米聖公教会の山本友美さんが『また「サランへ」を歌おうね』という本を出版されました。

『愛は生き抜いた記録の中でこそ光る。金時鐘。昭和四十五年、筥崎宮夏越祭の宵に友美が出会ったのは、在日韓国人二世・李卜之。
周囲の反対を押し切って結婚、その後も続く根強い差別と偏見、そして帰化を巡る葛藤。
家族の中で互いに〝異邦〞を抱えて生きるとはどのようなことか。
部落解放文学賞受賞作「父のなまえ」他、愛をめぐって綴られた鮮烈なる自己史』
と、本の帯書きにあるように、友美さん御自身や耕之さん、子どもたちや親族たちの歩みを素直に記されたもので、わたしもその文章に引き込まれ、時間を忘れて一気に最後まで読みました。

 五月二十七日から開催された日本聖公会第六十一(定期)総会では、「ヘイトクライム(人種・民族憎悪犯罪)・ヘイトスピーチ(人種差別・排外表現)の根絶と真の多民族・多文化共生社会の創造を求める日本聖公会の立場」を採択する件が可決されました。

鳥栖市でも外国人留学生に生卵が投げつけられた事件がありましたが、ここ数年顕著になってきたヘイトスピーチは聞くに堪えないものであり、表現の自由ではなく人権侵害です。
この議案の説明に立った聖公会生野センターの呉 光現(オ・クァンヒョン)主事も、山本友美さんの著書を紹介して、差別や偏見がいかに人を傷つけるものであるか、また多民族・多文化共生社会の大切さを訴えられました。

過去の日本の過ちをしっかりと見つめ、わたしたちのうちにある隔ての壁を打ち壊し、一人ひとりが大切にされる社会、互いの違いを豊かさとして分かち合う社会の創造に参与したいものです。

そのことを考えるという意味でも山本友美さんの著書をご一読されることをお勧めいたします。
また各教会に総会で採択された声明が届くと思います。こちらもぜひお読みください。

また日本聖公会管区事務所のホームページでも読むことができます。

2014年6月号

 九州は各地に美味しい食べ物がたくさんありますが、長崎と言えばその代表の一つはちゃんぽんでしょう。
先日、このちゃんぽんの由来を知りました。

 福建省の寒村で生まれた陳平順さんは、一八九二年(明治二十五年)に単身長崎に来られ、大変苦労をして七年後に中華料理店「四海楼」を開きます。
その後やっとのことで商売を軌道に乗せた彼は、自分が長崎に来た時に先達たちに世話になったその恩を、後に続く華僑や留学生の世話をすることで返そうと、積極的に身元引受人にもなったそうです。
そして貧しくひもじい思いをしている後輩のために、安くて、おいしくて、栄養満点で、おなかいっぱいになる料理として支那饂う どん飩を考案します。
平順氏は後輩たちに気軽に「吃飯了嗎(シャポンラマ)」と声をかけます。
「ご飯を食べたか?」という意味ですが、そこには「ちゃんと食べられているか? 困っていないか? 仕事はあるか?ひもじくないか?」という言外のニュアンスが含まれていたそうです。
もちろん、まだであれば「うちで食べて行きなさい」と支那饂飩をふるまいます。
この「吃飯(シャポン)」が、日本人には「ちゃんぽん」と聞こえ、支那饂飩が「ちゃんぽん」になったとのことです。
(わぐりたかし著『ぷらり日本全国「語源遺産」の旅』(中公新書ラクレ)より)

 ますますちゃんぽんが美味しく食べられそうな話だと思いませんか?
そしてわたしたちが毎週受けている聖餐もまた同じようだな、と改めて感じました。
受難の前夜に弟子たちに「このように行いなさい」と制定された聖餐式で、わたしたちは主キリストの御体と御血にあずかります。
この聖餐を通して主キリストはそれを受ける一人ひとりに「吃飯了嗎(シャポンラマ)」と問いかけるのです。
そして「一週間お疲れ様、よく頑張りましたね。心配しなくて大丈夫、わたしはいつもあなたと一緒にいますよ」とわたしたちを慰め、励まし、力づけ、また一週間の生活へと送り出してくださるのです。

 今年は六月十九日(木)が聖餐感謝日の小祝日です。
聖餐に与かる恵みの豊かさを思い、ますます大切にしたいものです。

2014年5月号

 わたしが九州教区に来て間もなく、ある司祭が「このお祈りは少しも叶えられないお祈りだ」と言ったのが、主教座聖堂の朝の礼拝で毎日唱えられていた「聖職に召される人が与えられるため」の祈りでした。

「はばたく」三月号にも昨年の教区会の教会報告に基づいて「語り合おう聖職不足」というタイトルで問題提起と四人の信徒・聖職の想いが掲載されていました。

 うれしいお知らせです。
この四月から熊本聖三一教会の塚本祐子さんが教区の神学生として京都のウイリアムス神学館で学びを始められました。
また長崎聖三一教会の相川和かず葉さんが聖職候補生として認可されました。
相川さんは特任聖職を志願しておられます。
これから働きながら教区の中で学びを始められます。
二人の方が教会の働き人になることを望み、勉学を始められることは九州教区にとって本当にうれしいことです。
お二人はこれから自らの召命について真剣に向かい合うことになります。
どうぞこの二人のことを覚えてお祈りください。

 しかし二人の方が与えられただけで十分なわけではありません。
この四月には堀尾憲孝司祭が定年退職されましたが、現在働いておられる教役者が皆元気に定年を迎えるとしても十年後には教区教役者数は現在の半分六名になります。
お二人のように教会の働き人として召される人がまだまだ求められています。
そのことのためにもお祈りください。
主教座聖堂委員会ではこれまで用いられていた「聖職に召される人が与えられるため」の祈りの改訂版を各教会にお配りしました。
主日の礼拝の中で捧げられていると思います。
この祈りと、また祈祷書には「聖職に召される人が増し加わるため」(百十一頁)もあります。
自分の言葉で祈ることもできます。
わたしたちみんなで、二人に続く献身者が与えられますよう祈り続けてまいりましょう。

2014年4月号

 今年最初の主日には三人の子どもたちの幼児洗礼がありました。
その後三月の最初の主日までに六名の方々が洗礼・堅信を受けられました。

大学を卒業して社会人になるのを機に堅信を受けられたY君、結婚後四十余年、喜寿を迎えて洗礼堅信を受けられたKさん、お連れ合いは式の初めから終わりまで涙を流しながら見守っておられました。
これまでは聖堂の後ろの方で遊んでいた小学生のMさんは、会衆席に座り祈祷書を持って大きな声でお祈りを唱えて堅信の恵みを受けました。
きっと次の日曜日も大きな声でお祈りをしていたことでしょう。
幼児洗礼を受けて長い時間を経て堅信の恵みに与かったSさん、親しい大切な方の死を通して教会に通われるようになったKさんとTさん、愛餐会の時の信徒の皆さんの祝辞も温かく喜びに溢れたものでした。

 「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレト三章一節)のみ言葉の通り、お一人おひとりにとって、神様によって備えられた時が満ちて洗礼・堅信の恵みをこの時に受けられたのだと思いますが、それはその人だけの喜びではなく、教会全体の大きな喜びです。

神様の恵みがそれらの人々を通しても確かにわたしたち九州教区に与えられていることを思い、いつも以上に嬉しい気持ちで帰路につきます。

 カトリック新聞でローマ教皇フランシスコが「子どもたちに堅信を」と呼びかけたとの記事が掲載されていました。
教皇は堅信を受け、聖霊の力を与えられることにより「キリストご自身が私たちのうちにおられ、私たちの人生のうちに人となられています。
キリストは一つです。
よく聞いてください。
キリストが祈り、ゆるし、希望と慰めを与え、私たちの兄弟姉妹に奉仕し、困窮している人や貧しい人に寄り添い、交わりをつくり出し、平和の種をまくのです。」と語っています(カトリック新聞二〇一四年二月九日)。

 堅信を通して与えられる恵みの素晴らしさを改めて思いめぐらしています。

2014年2月号

 主教に按手されてから1年余が過ぎました。
アッという間のようにも感じますし、按手を受けたのはずっと前のことのようにも思えます。
短いような長いような一年でしたが、主教に按手されてから一番有難く思うことは、いつもいつも多くの皆さんがお祈りしてくださっていることです。
ある教会の信徒は「わたしは毎日、教区主教と牧師のために必ずお祈りしています。」と力強く語ってくださいました。
また主日に各教会に行って聖餐式を捧げていますが、毎主日聖餐式の代祷の中で「すべての聖職と信徒、ことにわたしたちの主教ルカを導き・・・」とお祈りくださることに本当に勇気づけられています。
また同じように教区内の教会でもお祈りくださっていることを思うと感謝です。
きっとわたしの知らないところでもお祈りくださっている方ももられることでしょう。
わたしの人生の中でこれほど多くの皆さんにお祈りいただいている一年はありませんでした。
この一年の自らの働きが皆さんの祈りに応えられたかどうか振り返るゆとりもないというのが今の正直な気持ちですが、ただ皆さんのその祈りに支えられての日々であったということを強く感じています。
本当に感謝いたします。

 祈りに関して忘れられない人がいます。
わたしが神学校へ行くことを決めた夏、初めて沖縄の愛楽園を訪ねました。
その時に出会ったNさんのことを思い出します。
Nさんはわたしの想いを知って「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ九章六ニ節)という聖句をくださり、実の孫のようにわたしのことを心配し、祈り続けてくださいました。
最後にお会いした時にはもうわたしのことを分からなくなっていましたが、わたしは確かにこの方の祈りに支えられてきたことを実感しました。

 わたしたちは誰もが家族や友人たちの祈りに支えられながらこの世の旅路を歩みます。
毎日の小さな祈りが、大きな力になることを信じて祈りの輪を広げ深め豊かにしていきたいものです。

 

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