目を上げて

教区報に毎月掲載されるルカ武藤謙一主教のメッセージ
トップページへ戻る
最新メッセージ

2021年10月号

 「失われたものを数えるな 残されたものを最大限に生かせ」

 八月二十四日から始まったパラリンピック。

精一杯競技する姿がとても感動的でした。
パラリンピックは一九四八年七月二十九日、ロンドンオリンピック開会日に合わせて、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院で行われた十六名の車いす患者(英国退役軍人)によるアーチェリー大会がその原点とのことです。
この大会を提案したのは、ナチスによるユダヤ人排斥を逃れてドイツから亡命してきたルードヴィッヒ・グットマン博士です。
彼は第二次世界大戦で負傷し脊髄損傷した患者のためにスポーツを取り入れ、身体的・精神的リハビリを行います。

冒頭の言葉はグットマン博士の言葉で、今ではパラリンピックの精神を表わす言葉として大切にされているとのことです。

 この言葉は障がい者だけに当てはまるものではなく、誰に対しても当てはまる言葉ではないでしょうか。
自分にないものを数えても何にもなりません。
自分に与えられている賜物を最大限に生かすことが大切です。
神様はわたしたち一人ひとりに様々な賜物を与えてくださっています。
そしてその賜物を自分のためだけでなく、全体のために生かし用い、互いに補い合い、助け合って一つの体を作り上げるようにと望んでおられることは、コリントの信徒へ

の手紙Ⅰ十二章にある通りです。

 私たちに与えられているものをよりよく生かしているかどうか、改めて考えさせられました。

2021年9月号

 リデルライトホームで、新たに評議員、理事になられた方々を含めた役員会に出席しました。
評議員である大学教授の方が、学生が集まらないので介護を学ぶ学科を閉じることになったことを話されました。
リデルライトホームでも新卒の職員は少ないとのことです。
介護について素人のわたしは「どうして介護を学ぶ学生が集まらないのか。労働条件がよくないからですか」と質問しました。
すると皆さんが丁寧に教えてくださいました。

子どもたちは看護師や幼稚園、保育園の先生のことは小さい時から目にしてどんな仕事をするのかよくわかっているが、介護職の働きを目にする場面はほとんどなく、どんなにすばらしい仕事か伝わっていないこと、学校や医療現場を舞台にしたドラマや映画はあるけれども、介護をテーマにしたものはほとんどないこと、これまで介護が医療よりも低く見られてきたことなどを話してくださいました。
決してわたしが考えていたように労働条件が悪いからではないとのことです。
お一人お一人がおっしゃることは、なるほど確かにその通りと思わされました。
評議員、理事の多くの皆さんはリデルライトホームで働いておられる方々も含めて地域で長年にわたり介護福祉の働きをなされ、また介護に携わる人を育てようとしておられる方々です。
リデルライトホームの働きが、このような情熱と誇りをもった方々に支えられていることを嬉しく、また頼もしく感じました。

2021年8月号

 わたしの祈祷書には「聖職に召される人が与えられるためのお祈り」カードなど、いつも挟んで持ち歩いているものがあります。
その中の一つが「焼き場に立つ少年」の写真です。

 皆さんもどこかで目にしたことがあるのではないでしょうか。
テレビでもこの写真のことが取り上げられました。
小学生の少年が、頭を後ろにのけぞらしている弟をおんぶし、目を正面に向け、唇を真一文字にギュッと結び、指先を伸ばして手を太腿の横に置き、足は裸足のまま、直立不動の姿勢で立っている写真です。
アメリカ占領軍のカメラマン、ジョセフ・ロジャー・オダネル氏が原爆後の長崎で撮影したものです。
二〇一七年末に、ローマ教皇は「戦争がもたらすもの」というメッセージを添えて世界にこの写真を配信しました。

わたしの持っている写真も長崎のカトリック教会でいただいたものです。

 撮影したオダネル氏は退役してから長年撮影した写真を鞄にしまっていましたが、悲惨な戦争、核兵器使用は誤りであり、使用すべきではないと、写真を公開したとのことです。

 この少年が誰かを調査した方もあるようですが、詳しいことは分かっていません。
この悲しみ、悔しさ、痛みを背負って、この少年はどのような人生を歩まれたのでしょう。
多くの被爆者の皆さんが重荷を担いながら今も歩んでおられます。
戦後七十六年の今年も、過去の出来事をしっかり受け止め、証言に耳を傾け、平和の器として歩む想いを新たにしたいと思っています。

2021年7月号

 昨年の日本聖公会総会で決議された「原発のない世界を求める週間」にちなんで伝道部から各教会にアンケートが送られました。
その参考資料として「地球を救う一〇〇の方法~ eco action checklist」がありました。
百の項目があり、「している」「してみたい」「できた」でチェックするようになっています。
最初の項目は「ペットボトル、アルミ缶、スチール缶の飲料はなるべく買わない。買ったらリサイクル」です。
私の自動車にはほぼいつもペットボトルのお茶が置いてあります。
飲み終えればコンビニのごみ箱に捨てますが、リサイクルされているかは不明です。
その後の項目も「している」「できた」に○をつけられる項目が予想していたよりも少ないのです。
改めてごく普通に生活しているつもりでも、環境に負荷をかけているということを思わされます。
逆にこんなことも地球に優しくすることに繋がるのだと気づかされたことも幾つもありました。
例えば「輸送時のCO2排出を考え、近い産地のものを買う」や「バザーやフリーマーケットを活用する」などです。

私も司祭時代、幾つもの教会でバザーをしていましたが、地球環境の課題との繋がりは意識していませんでした。

 「被造物の本来の姿を守り、地球の生命を維持・再生するために努力すること」は聖公会の宣教の五指標の一つです。

神様がお造りになったすべての命が大切にされ、共に生きる世界となるように祈り、自らの在り方を見直したいと思います。

各教会から伝道部のアンケートにどんな回答が寄せられるか楽しみです。

2021年6月号

 四月二十九日の執事按手式は、出席者を教役者と礼拝奉仕者に限定して行われましたが、ユーチューブで同時配信され、教区内外の多くの皆さんが祈りを合わせてくださり、心から感謝いたします。

 直前のリトリートで中島省三司祭の静想講話をお聞きしていて、聖餐式での執事の役割について改めて気づかされました。
祈祷書では、聖餐式での福音書の朗読、代祷、懺悔の最初の呼びかけ、奉献の呼びかけ、派遣の唱和が執事の役割とされています。
祈祷書には記されていませんが、奉献されたパンとぶどう酒を聖卓に準備すること、ぶどう酒の分餐も執事の役割です。
教会の礼拝において主教と司祭を助けることは執事の役割です。
しかし、それだけが理由ではありません。
執事は悩む人、悲しむ人、病気の人、貧しい人、その他災いのうちにある人びとに仕える者であり、この世の人びとの必要、関心、希望を正しく教会に伝える働きを担っています(祈祷書四七四頁参照)。
福音書を朗読することも、代祷、奉献、分餐、派遣の唱和、どれもが執事が地域の人とのつながりをもっていることと深く関わっているのです。

 執事の役割を通して分かることは、教会の礼拝、聖餐式そのものが、地域の人たち、また地域に生きる信徒の皆さんの日常生活と深く結びついているということです。
礼拝生活と日常生活は別々のものではありません。

 今回のリトリートは、わたしの礼拝生活と日常生活とはどのように結びついているのかを見つめ直す機会になりました。

2021年5月号

 「主の用なり」(ルカ十九章三十四節 文語聖書)

 新年度を迎えました。

リデルライトホームで働いておられた中山泰男さんは聖職候補生に認可され、四月からは聖公会神学院に入学し、神学校での学びと祈りの共同生活が始まりました。
佐藤充聖職候補生はウイリアムス神学館三年生となり、最後の一年を過ごします。
そして島優子聖職候補生は四月二十九日に聖職按手を受けようとしています(皆さんがお読みになるときには執事になっていることでしょう)。
三名の聖職候補生が与えられていることは感謝です。
聖職候補生たち、また司祭への召命を目指す執事たちのため、これからもお祈りとお支えをお願いします。

 「主の用なり」はリデルライトホームの納骨堂に掲げられている聖句です。
CMS の宣教師として熊本に派遣されたリデルさんらは、ハンセン病の方々と出会い、共に歩むことが使命であり「主の用」であるとして回春病院を開設します。
中山泰男さんに聖職候補生志願を促したのもこの「主の用なり」のみ言葉だと聞いています。

 主はわたしたち一人ひとりに宣教の使命を与えてくださいます。
その任に相応しくないと思うこと、自分の希望とは違うと思うこともあるかもしれません。
またいやいやするのも良いとは思いません。
しかし、自分の思いを捨て、神様の導きに信頼して「主の用なり」と受け止めたいものです。
島聖職候補生の執事按手前リトリートの指導をお願いした中島省三司祭も「大役を果たせるかどうか心配ですが、『主の用なり』と考えてお引き受けします」とメールをくださいました。

2021年4月号

 「せんせいへ いつもあそんでくれてありがとう ごめんねじゃないからね」

 一月末に報道されたニュースでご存知の方もあると思います。
鳥栖市の保育園で新型コロナウイルスの集団感染が分かり二週間の休園となります。
冒頭の言葉はその保育園に通う園児が先生に送った手紙に書かれていたものです。
職員の発症によってクラスターとなったとのこと、園長先生、保育士や職員の皆さんは、子どもたちや保護者に対して申し訳ないと誰よりも強く責任を感じていたに違いありません。

この短いメッセージにどれだけ慰められ、励まされたことでしょう。
涙を流して喜ばれたとのことです。
感染者やその家族、あるいは医療従事者やその家族に対する偏見や差別に基づく言動に関する報道が多いなかで、このニュースはホッとする心温まるものでした。
きっと普段の保育の中で優しい思いやる心が育まれていたのではないかとも想像します。

 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」(ヨハネ十七章二十一節)
主イエス様は十字架に掛かられる前にこのように祈られました。
救い主の受難と復活は、まさにこのための出来事です。
神様と人、人と人とを隔てている壁を取り除き、すべての人が神様のもとで一つとなること。
そのためにこそ救い主はこの世に来られ十字架に掛かられたのです。
コロナ禍だからこそ温かい思いやりのある言葉と行いでもって丁寧な関わりに励みたいです。

 主イエス・キリストのご復活を心からお祝い申し上げます。

2021年3月号

 九州教区には五つの幼稚園・こども園がありますが、毎月の園便りがわたしのもとにも届きます。

一月にいただいた大分の聖公幼稚園便りに、宮本榮紀園長先生がクリスマス献金について書かれた文章がありました。

 聖公幼稚園ではお家の手伝いをして、いただいたお金を献金箱に入れて献げるようにしていたのですが、クリスマス礼拝で献げられた献金を集計してみると、多額の献金をしている子どもがいました。
園長先生はお礼を兼ねてお話ししようと保護者に電話したそうです。
お母さんのお話では、お子さんが献金箱を持ち帰って「園長先生、担任の先生が、かわいそうな人たちのために献金する。
お金だけじゃなく心を入れることが大事だと言った」と言うのを聞いて、お母さんが毎日大きな硬貨を渡したそうです。

また子どもが〝心〟をと言うのでそれを受け止めて、お母さんも献金してくださったとのこと。
宮本園長先生は「有難いことです。お気持ち、本当にありがとうございます。心からお礼申し上げます」と記しておられます。

 毎日、困難なうちにある人のことを覚え、心を込めて嬉しそうに硬貨を献金箱に入れる子どもとそれを温かく見守るお母さんの姿が目に浮かんでくるようです。
この子だけでなく、〝心〟を献げた聖公幼稚園の子どもたち一人ひとりの献げものを神様はきっと喜ばれたことでしょう。

 大斎節を迎えています。
今年も大斎克己献金袋が皆さまのお手元に届いていることでしょう。
わたしも、聖公幼稚園の子どもたちのように心をこめて日々の克己の実りをお献げしようと思っています。

2021年2月号

  「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」 (マタイ六章三十三節)

 国内でも新型コロナウイルス感染者数が増え続けており、緊急事態宣言が発出されるような状況です。
日々の生活でも様々なことに制約があり、職業上の理由で、あるいは家族のことを思って感染予防に細心の注意を払いながらお過ごしの方もいらっしゃることでしょう。
まだまだコロナ禍の収束が見通せないなかで新しい年が始まりました。

 冒頭の聖句はわたしが今年一年間、大切にしたいと選んだ聖句です。
幾つか思い浮かんだ聖句がありました。
自分でも意外に思ったのですが、この聖句になりました。

 イエス様は群衆に「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな。
野の花でさえ、ソロモンの栄華よりも素晴らしく装ってくださる天の父は、あなたがたに必要なものを備えてくださる。
だから、明日のことも思い煩うことなく『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。』」と命じられるのです。

 昨年開催された教区会の主教訓辞の中でも語ったことですが、わたしたちは地域の中にあって本当に小さな群れですが、それぞれの場所で福音の光を灯し続け、喜びをもって主を賛美し、小さな出会いを一つひとつ丁寧に重ねていくことを大切にする一年になるようにと願っています。
人と人との触れ合う機会も減り、孤立しがちな状況だからこそ、いろんなことに惑わされずに神様と人、人と人とを結ぶために、今日を大切に愛をもって仕える一年にしたい、そんな思いでこの聖句を選びました。

2021年1月号

 教区事務所に「はばたく」が届くとすぐに久保さんがわたしのところに一部持って来てくださいます。
わたしが一番先に読むのは最後の頁、「東西南北」です。
書いてくださった方、その教会の方々のお顔を思い浮かべながら、一つひとつの教会の記事を順番に読んでいくのがとても楽しみです。

 先月号( 昨年の十二月号)もとても印象深く嬉しく読みました。
新しく始まった子ども食堂。
敬老の集いの様子。
野外礼拝。
逝去者記念式。
石田廉人くんのサーバーデビュー。
三回目で介護実務試験に合格された青坂さんは、道行く人が明るい気持ちになれるようイルミネーションを飾りたい、神様に守られて歩みたいと記しています。
長期間会うことが叶わない仲間に礼拝で聞いたみ言葉を送ろうとする高橋さん。
みんなで役割分担して献げる礼拝、九十六歳の吉井さんが週報を読まれるしっかりとしたお声が聞こえてきそうです。
地球環境を考える小さな集い。
特別大きな出来事は一つもありません。
信徒数も少ない教会の普段の出来事ですが、その中に確かに神様の存在を感じ、福音を生きる喜びや希望があふれています。
日常生活の何気ない出来事のなかに神さまの働きを見出し、福音として受け止め、その喜びを分かち合い、伝えていくこと。
それが宣教・伝道の原点です。
どの教会もすぐに解決策を見出せないさまざまな課題を抱えています。

その現実をしっかりと受け止めながら、しかし、諦めず、希望をもって歩んでまいりましょう。
新しい年も九州教区に、わたしたち一人ひとりに神さまの祝福と導きが豊かにあることを信じて。

2020年12月号

 十月二十七日から日本聖公会第六十五(定期)総会が管区事務所と各教区をオンラインで結んで開催されました。
二日目の夕食後、首座主教選挙、常議員選挙が行われ、首座主教にわたしが選出されました。

 常議員選挙になってから、信徒代議員の方が「なんだかドキドキしてきた」と言われ、さかんにため息をつかれます。
それを聞いていてわたし自身もだんだんと不安や恐れが大きくなってきて、議場の椅子から立ち上がって、ホールの扉を開けて逃げ出したいような気持ちになってきました。
選挙が終わってその日の議事は終了しましたが、わたしの動揺は収まりません。
すると牛島幹夫司祭が、すぐにわたしの側に来られて「皆さん、武藤主教のためにお祈りしましょう」と言ってくださり、他の代議員の方々も集まり、小さな輪になって首座主教のため、常議員のためにお祈りしてくださいました。
本当に嬉しかったです。
お祈りしてくださったことで、わたしの気持ちも少し落ち着き、無事に自宅に帰ることができました。
わたし自身は以前にもこの欄に記したように本当に小さな欠けた土の器にすぎませんが、この度の新しい務めも神様から与えられたものと信じて、自分なりに精一杯果たしていこうと考えています。

 わたし自身も首座主教の務めがどのようなものかまだよく把握していませんが、教区の信徒、教役者の皆さまのご理解とご協力がなければ果たすことはできません。
何よりも皆さまのお祈りがわたしの大きな支えです。
今まで以上にお祈りくださるよう、心からお願いいたします。

2020年11月号

 コロナ禍で、主日礼拝の休止が続いている教会、愛餐会を休止している教会もありますが、九月には長寿の皆さんを囲んで礼拝、愛餐会をされた教会もあったのではないでしょうか。
わたしが管理している戸畑聖アンデレ教会でも八十歳以上の方々に案内のハガキを出し、敬老感謝の礼拝と愛餐会をしました(普段はまだ愛餐会は休止しています)。
わたしは巡杖のため出席できませんでしたが、当日は普段よりも多くの方が出席され、礼拝ではお一人おひとりのお名前を挙げて高齢者のためのお祈りを捧げ、短時間でしたが愛餐会をしてプレゼントを渡しました。
報告くださった教会委員の方のメールは「やはり、久しぶりに顔を合わせる機会となって、皆さん大変喜んでおられました」で結ばれており、会館に集まっている皆さんを思い浮べて嬉しくなりました。
顔と顔とを合わせて共に祈り、共に語り、共に食事をすることは、教会の交わりの基本です。

 新型コロナウイルス感染予防のため、外出や面会が制限され寂しい思いをされている方も多くおられることでしょう。
入院中の方もご家族や親しい人との面会が叶わないでいます。
自宅にいて外出を控えている方もおられるでしょう。
お相手のことを考えて会うことを控えている方もおられるでしょう。

 冬にはまた感染者数が増加するのではないかとも言われています。
まだ直接お会いすることは叶わないとしても、互いに主イエス様によって結ばれていることを感じられるような具体的な配慮を大事にしたいと改めて思っています。

2020年10月号

 わたしが教区主教になって七年目を迎えています。
もともと主教職を担うような器ではないことはわたし自身が一番よく分かっていますから、
当たり前と言えば当り前のことですが、本当に教区主教としての務めを果たせていないと思うことばかりです。
数字だけですべてを判断することはできませんが、教区の現状は右肩下がりです。
それにもかかわらず、教区の同労者、信徒の皆さんがお祈りくださっていることにただただ感謝です。

 現在は福岡ベテル教会、直方キリスト教会、戸畑聖アンデレ教会、鹿児島復活教会に直接関わらせていただいていますが、例えば週報一つにしても、信徒の皆さんの協力と寛容さによって何とかなっているという有様です。

そんななかでつくづく思うのです。
本当に皆さんに支えられて教区主教として、聖職として働かせていただいていると。

 マタイによる福音書十八章は、イエス様に従う者たちへの教えがまとめられています。
共同体を大切にするために、小さな者をこそ尊び、つまずかせず、自分に対して罪を犯した者に、自から行って忠告し、和解のために二人または三人が共に祈るならば、そこに共にいてくださると約束し、七を七十倍するまで赦せ、と言われます。

わたしたちが、神に赦され愛され生かされる共同体であり、また互いにそのように神様によって結ばれた絆を何よりも大切にする共同体であることを改めて教えられます。

 九州教区という神の家族の交わりのなかで皆さんとご一緒に生かされていることに感謝です。

2020年9月号

 七月以降、新型コロナウイルス感染者が全国的に増え続け、今年の夏は人の移動も例年とは違うようです。
感染予防のために、密閉、密集、密接を避けるようにと言われて、「三密」と言う言葉がすっかり定着しました。

 朝日新聞でも紹介されていましたが、「三密」という言葉は、「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」のことで、仏教の言葉だと知りました。
調べてみると、真言宗(密教)では生命現象はすべて身(身体)、口(言葉)、意(心)という三つのはたらきで成り立っていると説いているとのこと。
自らの身体、言葉、心という三つのはたらきを、仏様の三密に合致させ、大日如来と一体になることであり、具体的には、手に仏の象徴である印を結び(身密)、口に仏の言葉である真言を唱え(口密)、心を仏の境地に置くこと(意密)によって、仏様と一体になる努力をしていくこと。
弘法大師は、 この修行によって授かる功徳の力と、大日如来の加護の力(加持力)が同時にはたらいて互いに応じ合う時、即身成仏が可能になると説いている、とありました。

 コロナ感染予防の「三密」とは全く違いますが、わたしたちが「思いと言葉と行いによって多くの罪を犯していることを懴悔します」と主日礼拝で唱えていることに通じるのではないでしょうか。

 新型コロナウイルスによって戸惑いや不安を感じている方が多くおられます。
密閉、密集、密接を避けるだけでなく、身体を健康に保ち正しく振る舞う、慈しみに満ちた言葉を語る、そのためにいろいろな情報に惑わされずに心を冷静に保つ、という身、口、意の「三密」をも大切にしたいものです。

2020年8月号

 教区内の各教会には、今年も「長崎原爆記念礼拝」のポスターが掲示されていることと思います。
被爆75年という節目のこの夏、心を込めてこの礼拝を捧げたいと思っています。
被爆70年の2015年8月9日も日曜日でしたが、今年もこの日は主日になります。
さらにポスターに「コロナウイルスの感染予防のため、基本的に規模を縮小」と記されているように、遠方からの参加も難しい状況です。
直接長崎で礼拝に出席できる方は少ないと思います。
それぞれの教会の主日礼拝のなかで、長崎で捧げられている原爆記念礼拝に心を合わせ、ご一緒に被爆七五年を覚えてお祈りください。
この日の日本聖公会代祷表には「長崎原爆犠牲者と、すべての被爆者のため」とあります。
全国の教会でも代祷が捧げられます。
また海外でもこの日を覚えて祈りが捧げられることでしょう。
平和の同心円が長崎だけではなく九州教区の一つひとつの教会から広がっていきますように、平和を考える機会を設けてくだされば幸いです。

また六月に伝道部が配布した「原発のない世界を求める国際協議会基調講演」DVD もこの夏に各教会でご覧くださるようお勧めいたします。

 昨年長崎を訪問した教皇フランシスコは、爆心地公園でのメッセージの中で、「今日もなおわたしたちの良心を締めつけ続ける、何百万もの人の苦しみに無関心でいてよい人はいません。傷の痛みに叫ぶ兄弟の声に耳を塞いでよい人はどこにもいません。対話することのできない文化による破滅を前に目を閉ざしてよい人はどこにもいません」と語り、平和を造り出すことはすべての人の課題であると訴えました。

 わたしたちが、キリストの和解と平和の器として整えられ用いられますよう、聖霊のお導きを祈ります。

2020年7月号

 六月一日午後八時、全国の約二百カ所で一斉に花火が打ち上げられたというニュースを見ました。

新型コロナウイルスに負けないように花火で医療従事者に感謝を、また人びとに元気や希望を届けたいと、日本煙火協会の青年部の若手花火職人が中心になって企画したとのことです。
ニュースでは夜空に打ち上げられた花火を見上げる人たちの「勇気をもらった」などの感想が紹介されていました。
夏や秋の花火大会が次々と中止となり自分たちも厳しい状況にあるなかで、多くの人たちを励ました心温まるニュースでした。
花火大会には、悪疫退散祈願を目的に誕生したとの説もあるとのことです。

 「見上げる」ということでは、ある雑誌で興味深い文章に出会いました。

ギリシア語で「人間」のことを「アンスローポス」と言いますが、これは生物学的な意味での「人」(アンドロス)に「目」(オフタルモス)という言葉がつながってできた言葉で、元は「目を高く上げる人」という意味だったというのです。
それは人間とは目を高く上げて祈る者である、ということでしょう。

 わたしは祈るとき、目を閉じて、頭を垂れて祈ります。

朝・夕の礼拝のときもそうです。
ですから礼拝が終わった時、必ず目を上げて正面のステンドグラスの上を見つめるようにしています。
そこにはイエスを見つめる天使がおり、「大切なことはただ一つ」という聖句が記されています。
大切なことはただ一つ、その思いを新たにして聖堂を出る毎日です。

目を上げて(本年)へ

バックナンバー

2020年の「目を上げて」
2019年の「目を上げて」
2018年の「目を上げて」
2017年の「目を上げて」
2016年の「目を上げて」
2015年の「目を上げて」
2014年の「目を上げて」
2013年の「目を上げて」


E-mail: d-kyushu@ymt.bbiq.jp


日本聖公会九州教区