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教区報に毎月掲載されるルカ武藤謙一主教のメッセージ
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2015年バックナンバー

2015年12月号

 十月下旬に郡山聖ペテロ聖パウロ教会で主教会が行われました。
主教会の人権の学びとして、ここに事務所を置いている「原発と放射能に関する特別問題プロジェクト」事務局長の池住圭さんから、放射能汚染の現状や、避難を余儀なくされ今も仮設住宅で生活する方々の現実についてお話を聞き、また最終日には朝から自動車に分乗して、いわき市から仙台に向かって被災地を訪ねました。

 ホットスポットである郡山では除染が行われてもまだまだ放射線量は高いままです。
今年の夏も高島に親子が来てくださったセントポール幼稚園では、今も毎朝夕に窓などの拭き取りが行われています。
いわき市から国道六号線を仙台に向かって北上していくといたるところで除染作業をしており、汚染土を入れた袋がいたるところに積まれています。
福島原子力発電所に近づくと放射線量はぐっと高くなり、四年前の大震災の時のまま何も手を付けられていない場所があり、だれも住むことのできない町はやはり異様に感じ、放射能汚染が自然やわたしたちの生活に及ぼす被害の大きさを実感させられます。
雁小屋仮設住宅のなかにある「支援センター しんち がん小屋」では仮設住宅に生活しておられる方のお話を聞くことができました。

 「教会報告」というものが毎年、教区会には提出されるのを、信徒代議員でない方々、ご存知ですか?

 教区の執行部の各部各委員会の一年間の働きについての報告と、教区内全教会からの「教会報告」です。
で、「教会報告」を信徒代議員の方しか読まないのでは、折角の他の教会についての情報が記されているのにあまりに勿体ない。

 今年は教会の信徒数や、毎主日の礼拝のあり方や、そして伝道の働きと各教会が抱えている課題などについて、であります。

 ぜひ、全信徒が、他の教会のことも知って、その上で改めて自分の教会を振り返りましょう!
牧師に、「大変ですけど、教会報告を印刷して読ませてください」とどうぞ。

 そして…
「五年後の夢」委員会が、各教会についてのステキな掲示ポスターを作成していますね。
みなさんの教会に、三つの教会のものが掲示されているでしょうか。
大分聖公会、延岡聖ステパノ教会、「佐賀聖ルカ教会」伝道所です。

 委員会さま、全教会を早く一巡して他の教会の活動やありさまのカラー写真を見せてください。
全教会、伝道所、礼拝堂のものが揃ったら、記録としても良いし眺めるに楽しいではないですか?

 委員会さま、よろしく。
そして…
「共有」とはどの組織でも強調されることですが、さて、教会の世界では?
記念礼拝、合同礼拝、特別行事、伝道コンサート、講演会などなどとにかく、教区事務所とこの広報部にお知らせください。
広報部メールは各号の最終面の欄外にあります。
こんなこと? と思うことも。
行事というのは準備に忙しくて、自分の教会周辺への広告に気を取られてなかなか「教区」まで気が回りませんわ、という気持ちわからないではありませんが、できる限り「共有」して祝福を祈って戴こうではありませんか。

大震災から四年七か月を経て、犠牲となった人に声をかけられずに助けられなかったことを悔やむ思いを涙ながらに語ってくださる方。自分は食べても孫たちに大好きな魚を食べさせることができない今の生活について語ってくださる漁師の方。
どなたのお話をきいても、東日本大震災と原発事故による放射能汚染による苦しみは今も続いているだけでなく、さらに大きなものになっていると感じました。

 今も痛み悲しみを負いながら被災地で生活されている方々のことを忘れることなく、祈りのうちに覚え、またそれぞれができる仕方で共に歩む者でありたいものです。
(パソコンを使われる方は「原発と放射能に関する特別問題プロジェクト」のホームページもご覧ください。)

 

2015年11月号

 この数ヵ月の間に幾つかの教会で堅信式があり、堅信受領者数はすでに昨年よりも多くなりました。
ある教会でのことです。祝会を兼ねた昼食の時に堅信を受けた方と一緒のテーブルになりました。
するとその方が「一つ質問があるのですが。」と言われるのです。
どんな質問をされるのかとちょっとドキドキしましたが、「あなたを助けるために、わたしにできることは何ですか?」とおっしゃるのです。
とても嬉しかったです。
堅信を受けた方へのインタビューなどがあって、会話は一時中断されましたが、祝会が終わったときにわたしは「二つのことをお願いします。

一つ目は教区主教のためにいつも祈ってほしいということです。
二つ目は毎主日の礼拝に出席してくださること。
それがわたしを助けてくれることです。」と答えました。
それを聞いたその方は「とてもシンプルなことですね。」とおっしゃいました。

 わたしが彼にお願いしたことは皆さんにもお願いしたいことでもあります。
いつも主日礼拝の代祷で皆さんが教区主教のためにお祈りくださっていること、あるいは個人の祈りの内にお覚えくださっていることに本当に感謝です。

どうぞこれからも教区主教だけでなく教区の教役者、牧師を覚えてお祈りくださるようお願いいたします。

 わたしは毎主日、皆さんとご一緒に聖餐式を捧げることで本当に癒され、力をいただき、また今週も頑張ろうと思いながら帰宅します。
教会に来られる方はどうぞいつも喜びをもって主日礼拝に出席ください。
あなたが礼拝に出席しているということが主の福音を証しする事であり、他の人たちの励ましになります。
何か特別なことをすることも大切なことですが、それ以上に一人ひとりが神に愛されている者として命を輝かせて在ることが尊いことと思うのです。

2015年10月号

 戦後七十年に当たる今年の長崎原爆記念礼拝には約百名の方々が出席して捧げられました。
九州教区からだけでなく、他教区から、また韓国や英国からも出席してくださり、「死の同心円から平和の同心円へ」という想いを皆で大切にした礼拝でした。

 また教区内の全教会でも主日礼拝のなかで長崎で用いるのと同じローソクを灯し、同じ聖歌を歌い、同じ時刻に黙祷し、同じ代祷を用いて長崎原爆記念礼拝を覚え、原爆犠牲者の魂の平安と世界平和を祈りました。

 わたしは九日が日曜日でなかったならもっと大勢の方が長崎に来られただろうと残念に思っていました。
しかし長崎から帰って来て考えが変わりました。

小林司祭が宗像の主日礼拝の様子を写真で送ってくださったのです。
その写真を見て、改めて九日の主日礼拝で教区内の全教会が長崎原爆記念日を覚えて一緒に祈ったことを実感したのです。
もし九日が週日だったら教区内の各教会で皆さんが集まって礼拝をしたでしょうか?
むしろ主日だったからこそ教区内の多くの皆さんが心と思いを一つにして長崎原爆犠牲者の魂の平安と平和のために祈ることが出来たのではないかと思うのです。

 そんなことを思うと「平和の同心円」が長崎から始まって九州教区内の全教会に広がり、さらにまた日本聖公会の多くの教会にも広がった八月九日ではなかったかと思うのです。
今年も長崎聖三一教会には大阪や京都教区の教会、学校、幼稚園から千羽鶴が送られてきました。
また他教区のある教会からは長崎原爆記念礼拝で用いる代祷を使いたいので教えて欲しいと連絡がありました。

「平和の同心円」は確実に広がっています。
植松誠首座主教は挨拶の中で「八月六日の広島、九日の長崎のことをランベスパレスのスタッフたちと一緒にお祈りしています」というカンタベリー大主教のメッセージを伝えてくださいましたが、日本だけでなく、遠く離れたところでもきっと多くの方々が長崎を覚え、また平和を求めて祈ってくださったに違いありません。

 これからも一つひとつの教会から「平和の同心円」を広げてまいりましょう。

2015年9月号

 七月の教区教役者逝去記念聖餐式後の昼食の時のことです。
いつものように逝去された教役者を偲んでいろいろなお話を伺っていました。
ある出席者が古賀フジ伝道師のことに関連してお話をしてくださいました。
古賀伝道師の薫陶を受けた信徒たちは、買い物から帰って来てもすぐにそれをしまうことはしないとのこと。
先ず神様に感謝のお祈りをしてから冷蔵庫などに入れるのだそうです。
H司祭が福岡ベテル教会に行ったとき、いがごと落ちていた栗の実を拾って持って帰ろうとしたら、「まだ神様に献げていないので、持って帰ってはいけません。」と叱られたというエピソードも聞いたことを思い出しました。
さらに話は続き、衣服を買った時には、その衣服を最初に着るのは日曜日、礼拝に行く時と決まっており、今でもそうされているとのことでした。

 地方の仏壇のある家では、いただき物を先ず仏壇に供えてからいただく習慣がありますが、買ってきたもの、衣服に関しても感謝の祈りを献げたり、最初に着るのが礼拝に行くときということは今まで聞いたことがありませんでした。
それだけに初物を主に献げる、いただいたものであれ買ってきたものであれ、先ず神に献げ、感謝してからそれを用いる信仰の姿勢に襟を正されます。
自分で得たお金で買った物は当然自分の物であると思いこみ、神に感謝する思いに至らないことが多いのではないでしょうか。

 「初穂を献げる」思いをどれだけもっているでしょうか。

 「すべてのものは主の賜物、わたしたちは主から受けて、主に献げたのです。」
聖餐式の奉献で唱えるこの言葉をもっともっと大切にしなければと思わされた一時でした。

2015年8月号

 〜敵意という隔ての壁を取り壊す〜
ある方からご自身の戦争体験を聞く機会がありました。

その場面を想像することもできないほどとても悲惨で残酷なお話しでしたが、その方は「平和の砦を築きましょう」と何回も繰り返し訴えておられました。
平和が大切なのです、平和な社会を築いていきましょうという意味でおっしゃっているのだと理解しましたが、「平和の砦」という表現に違和感をもちました。

周囲がいかに争いや憎しみに満ちていても、この砦の中だけは平和で安全な場所であるかのようにイメージできるからです。
砦の塀が厚くまた高くなればなるほど、砦の中は平和で安全かもしれませんが、砦の外との隔たりも大きくなっていくように思えるのです。
平和とはむしろさまざまな砦を打ち壊し、隔ての壁を取り除くことによって実現されるものではないでしょうか。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。
二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。
こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ書二・十四〜十六)とパウロが記している通りです。
わたしたちに求められているのは安全で平和な場所を確保する砦を築くことではなく、むしろ神と人、人と人、命と命を隔てている壁を取り除くことであり、分かたれていた関係、断たれていた絆を回復し、一つとなることです。
それこそが教会の使命である和解の務めです。

 平和とは程遠い社会の現実を前にして、わたしたちに何ができるだろうかと思われるかもしれませんが、目の前にある壁を一つひとつ取り除いていくこと、小さな平和を造り出していくことを大切にしたいものです。
現実の厳しさに心が折れそうになるかもしれません。
忍耐強く主に信頼して祈りつつ主の平和の実現を求めてまいりましょう。
それは一人でするものではなく、共同体として、また他教派、他宗教の人たち、地域の人たちとも連帯してなされるものでしょう。

戦後七十年目の八月、それぞれの教会で、また個人でも、すべての戦争、紛争の犠牲者を覚えて祈り、平和の器として歩む思いを新たにしたいものです。

2015年7月号

 すでに皆さんご存知のことと思いますが、伝道部では「ハンセン病問題啓発資金」献金のお願いをしています。
この資金は太田国男執事がお捧げくださった献金を基にして十三年前に創られたものです。
太田国男執事は、ハンセン病問題への理解が深まるための取り組みが、教区内で活発に行われることを願って献金してくださいました。
この資金によって教区内の各教会で様々な企画が実施されてきました。
また菊池恵楓園、菊池黎明教会や、鹿屋の恵生教会の皆さんとの交わりが深められたことは本当に感謝です。
しかし十三年を経ていよいよこの資金の残額が少なくなり、資金の運用を担っている伝道部で検討し今回のお願いをすることになった次第です。
それはハンセン病啓発に関わる活動は、今日でもなお九州教区の大切な宣教課題の一つであるからです。

 わたしたちの教区には今も二つの療養所があります。
歴史的には国立療養所が出来る以前からリデル女史、ライト女史らの回春病院での働きがあり、ハンセン病患者の皆さんとの主にある交わりがずっと続けられ、その交わりを通して多くの気づきや恵みが与えられてきました。

一九九六年、らい予防法が廃止され、長い間多くの入所者の皆さんの人権を侵害していた隔離政策は終わりましたが、元患者の皆さんがご高齢になった今でも、ハンセン病に対する偏見や差別がなくなったわけではありません。
これからもなお啓発活動は必要です。
また高齢化が進み社会復帰が困難な元患者の皆さんとの交流を深めることも求められていることです。
菊池黎明教会の五年後の夢は「他の教会との交わりを深める!」です。
黎明教会では多くの皆さんが療養所やそこにある教会を訪ねてくることを静かに祈りながら待っておられるのです。
この夢の実現はわたしたちに委ねられている夢でもあることを覚えたいものです。

 他にもいろいろな献金のお願いがあるなかで恐縮ですが、皆さんのお祈りとご協力をお願いいたします。

2015年6月号

 四月二十九日に行われた福岡ベテル教会創立十周年記念礼拝には教区内から多くの皆さんが集まってくださり、これまで与えられた恵みを感謝し、これからの宣教・伝道への思いを新たにすることができ、本当に感謝でした。
当日の説教は五十嵐正司前教区主教がしてくださいましたが、その説教で聖公会の精神(エートス)について、次のように話されました。
「聖公会はイギリスの文化によって育まれたキリスト教会であり、イギリスにおいてはイギリス国教会と称されています。国教会は国の指導者と協働して、イギリス地域に住むすべての人が、命の尊厳を持って生きて行けるように働く役割があります。時には、国の政策が神の御旨に叶わない際にはきちんと『No』を云う責任があります。教会と国家とは緊張関係を持ちながら協働します。聖公会のエートスには、この地球上に住むすべての人、クリスチャン、イスラム教徒、仏教徒、無神論者、宗教に何の関心も持たない人々にも目を向け、人としての尊厳を持って生きていけるような働きをする役割があります。」

 日本聖公会主教会は「〝戦後七十年〞に当たって」というメッセージと祈りを出しました。
すでにお読みくださったと思いますが、戦後七十周年を迎えた今、平和への思いを新たにし、過去の歴史に、また聖書に学び、平和の福音を宣べ伝えていく決意を新たにしようというものです。
このようなメッセージに対して、教会が政治問題に関わってよいのかという疑問を耳にすることがあります。

五十嵐主教の言葉をお借りするなら、聖公会という教会はすべての人が「人としての尊厳をもって生きていけるような働き」を大切にしている教会です。

 六月二十三日は沖縄「慰霊の日」です。
辺野古新基地建設は沖縄の民意に逆らって進んでおり、沖縄のキリスト者たちを始め多くの人たちが主にある平和を希求し、新基地反対のために祈り活動しています。
このことに関心を寄せ、祈り、ともに平和の器として歩みたいものです。

2015年5月号

 昼食を終えて久しぶりに大濠公園に散歩に出かけました。
陽差しも暖かく桜は満開、花壇には色とりどりの花が咲き、新緑が美しい柳の枝がそよ風に揺れています。
お濠には水鳥がゆったりと浮かび、冬眠から覚めた亀は淵の岩の上で甲羅干し。

ボートも思い思いの方向にゆっくりと動いています。
お濠の周りの遊歩道には腕を組んで歩く老夫婦、車いすに乗った方、よちよち歩きの小さな子どもを連れた親子、若者たち、外国人のグループなど、さまざまな人たちが思い思いのペースで歩いています。
ベンチでのんびりしている人、ランニングをしている人たちもいます。

鳥の鳴き声、子どもたちの歓声、若者たちの笑い声、女性たちの話し声、博多弁(?)、韓国語、英語、楽器の音など、いろいろな音も絶えることがありません。
不思議なことに怒ったり泣いたりしている人は見当たりません。
そこにいた誰もが幸せそうに見えて、何となくうれしく幸せな気持ちになって帰ってきました。
しかし幸せそうに見える誰もが、きっと何かしら悩みや心配事を抱えていることでしょう。
悲しみや痛み、生きることの困難を感じている人もいるかもしれません。
でも暖かな春の陽の光のもと、多くの新しい命の息吹きに包まれることで、表情も明るくなり、心も少し元気になるのではないでしょうか。
自然にはそんな力や優しさもあるように思います。

 「自然」と一言で言いましたが、そこには数えきれないほどの小さな命の営みがあります。

人の目に触れないところでも多くの営みがなされます。
虫や鳥や魚、木々や花々の一つひとつがそれぞれの命を次の世代へと受け渡していくために今を懸命に生きています。

そのことを考えてもまた励まされる思いです。
教会の暦は復活節。キリストの復活を祝い、新しい命に生かされているわたしたちです。
九州教区に連なるお一人おひとりが、命を輝かせ、命を響き合わせて今日を生きることができますように、神様の祝福をお祈りいたします。

2015年4月号

 一月三十日から二月九日まで、カンタベリーでの新任主教研修会に参加させていただきました。
今回の研修会には二十二ヵ国から三七名の主教たちが集まりました。
そのうち二十名はアフリカ諸国の主教たちです。
アジアからは香港、ミャンマー、インドの主教たちが来ていました。
また女性の主教が四名いました。
カンタベリー大聖堂での朝の礼拝・聖餐式で始まり、夕の礼拝で終わる一日は、聖書の学びと分かち合い、多彩な講師のお話と分かち合いというプログラムでした。
わたしの乏しい英語力では十分に理解することはできませんでしたが、良い交わりと学びの時でした。
それぞれ異なった歴史や文化・伝統をもち、教会の置かれている状況も全く違います。
他宗教との対立や部族間の抗争、過激派組織による脅威に晒されている教会もあります。
アルコール依存やHIV・エイズや女性への性暴力に取り組む主教もいました。
考え方が違う課題もあります。
でも共に礼拝し、食事をし、語り合うときに、いろいろと違いはあるけれども、わたしたちは同じ聖公会の仲間であるという一体感、聖公会の多様性と一致を実感することができました。

 この研修の期間中に、オーストラリアから参加していた女性の主教とわたしには共通の友人がいることが分かりました。
かつて私が清里の牧師をしていた時に出会ったオーストラリア人夫妻がこの主教と友人だったのです。
そのことを知った彼女の反応は「世界は小さく狭いのね。特に聖公会は。」でした。
研修が終わってから一緒に行った上原主教と訪ねたウェストミンスター大寺院では、ソロモン諸島から来ていたシスターと出会いました。

新任主教の研修会にはソロモンから主教が来られていたことを話すと、その主教のことはよく知っていると嬉しそうに話され、ここでも聖公会の狭さを経験したのです。

 〝広くて狭い〞聖公会の豊かな交わりを体験させていただいたこと、教区の皆さまに、そして主に感謝です。

2015年3月号

 今年の一月一日、全聖公会の代祷表で、わたしたち九州教区のことを世界中の聖公会の教会がお祈りしてくださいました。

後日、カンタベリー教区からは「九州教区のためにお祈りしました」というカードもいただきました。
同じように今、日本聖公会の信徒の皆さんが佐賀聖ルカ伝道所のためにお祈りして下さっていることをご存知でしょうか。
今年の大斎克己献金の国内伝道強化プロジェクトとして、佐賀聖ルカ伝道所が選ばれているからです。

 皆さんもよくご存知のように、佐賀県は日本聖公会で唯一聖公会の教会がない県です。
明治時代から度々伝道が行われていましたが教会形成にはいたりませんでした。
一九八六年に久留米聖公教会の働きとして「佐賀祈りの家」が始められ、二〇一二年には現在地に土地と建物を購入し名称も「佐賀聖ルカ伝道所」となり、翌年には教籍のおける伝道所となりました。
昨年秋には隣接地を取得することができ、それにともない教会であることを分かりやすくするために十字架の設置や、トイレの増設や部屋の改装など、より使いやすい空間とすることを計画したのです。
この計画を大斎克己献金の国内宣教強化プロジェクトとして申請をし、これが認められたのです。

 宗像聖パウロ教会ができるときにも、この国内伝道強化プロジェクトとして日本聖公会全体がお祈りくださり大斎克己献金を捧げてくださいました。

 すでに大斎克己献金袋は皆さんのお手元に届いていることと思います。

その中にある文章をもう一度よくお読みください。
国内伝道強化のためだけでなく、日本聖公会の宣教活動のため、また海外の宣教協力のためにも用いられていることが分かると思います。

 日本聖公会の皆さんの祈りに合わせて、改めてわたしたちも佐賀聖ルカ伝道所のことをおぼえたいものです。

 大斎節の一日一日を皆さんが大切に過ごされ、主イエス・キリストのご復活の喜びを深く味わうことができますようお祈りいたします。

2015年2月号

 昨年十一月のことです。
管区総主事を通してフランクさんとおっしゃるアメリカ聖公会の信徒の方からメールが届きました。
フランクさんは米国海軍兵として一九七二年から二年間佐世保に勤務しておられた時、佐世保復活教会に通われたのですが、当時の佐世保復活教会牧師であった末藤秀夫司祭の消息について知らせてほしいとのことでした。
外池教区事務所長にお願いして、末藤司祭が既に逝去されていることと、ご家族が東京におられるのでその住所とをお知らせしました。
するとすぐに彼からお礼のメールが届きました。
そのメールには末藤司祭とその家族が、また佐世保復活教会の信徒の皆さんが、真のキリストの僕としてとても親切に関わってくださったこと、佐世保を離れてからも行く先々で米国内や他の地域の数々の教会に通ったけれども、佐世保復活教会ほどに、彼とその家族を歓迎してくれた教会はなかったと記されていました。

 現在フランクさんはジョージア州のある教会で求道者を教える奉仕をしておられます。
彼は聖公会の霊的な交わりが国を超えて世界に広がっていること、世界中どこであっても聖公会の交わりが持てることを大切なこととして伝えたいと強く思っておられます。
それはご自身の佐世保での体験に基づいているのです。
今でもその時に使っていた英語とローマ字で書かれた聖餐式文や、お別れにもらった日本語の聖書を大切にしておられるとのことです。

 末藤秀夫司祭は一九八二年九月に四十五歳で天に召されています。
佐世保の牧師としてフランクさんとお会いした頃は三十半ばだったことになります。

きっとフランクさんたちのためにも精一杯の配慮をし、また主に在る交わりを楽しまれたことでしょう。
その働きが三十年以上たった今も佐世保の地だけでなく、海の向こうの教会のなかでも活きているのです。
一度もお会いすることのなかった末藤司祭ですが、その誠実な牧会の姿勢にわたしも倣いたいと思います。

2015年1月号

 神様のお恵みのうちに新年を迎えられたことと思います。
配達された年賀状を楽しく読んでいる方もおられるでしょう。
毎年わたしも、ああこの人も元気なんだなとか、そんなことがあったのかと、その方のことを思い浮かべながら一枚一枚読んでいます。
一年に一度のよい知らせです。

 リデルライトホーム記念館館長の緒方さんの講演で知ったことですが、回春病院があった頃、毎月『救の光』という機関誌が発行されていたそうです。
緒方さんが長島愛生園を訪ねて、初めて実物を幾つか手にすることができたとのこと。
その内容は教会報のようで、牧師の言葉、信徒の証し、お知らせ、短歌など、また「九州地方部各教会に告ぐ」という教区内の教会のために、教会の名前を挙げてお祈りすることを知らせる欄もあります。

 国立療養所が出来てからは、回春病院を離れて各地の療養所に移られた方も少なくなかったようです。
ことにリデル女史が亡くなられた後、中心的な役割を担っていた人たちが各地の療養所に移られたようですが、『救の光』はそれらの人たちにも毎号送られていました。
現代と違って情報の少ない時代、毎月送られてくる『救の光』は、回春病院を離れた方たちにとって待ちどおしく、楽しみにしていたものだったでしょう。
それは信仰を養うものとなり、また互いの証しを分かち合うものであり、回春病院やそこにいる友人たちの近況を知るものとなったと想像します。
また『救の光』はまだ信徒になっていない人たちにも読まれ、伝道のためにもおおいに用いられたとのことです。

 「あなたがたは、キリストが、わたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。
墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」(コリントの信徒への手紙二・三章三節)とパウロは記しています。
新しい年が始まりました。
あなたは、今年はどなたに、どのような方々に喜びの知らせを伝える手紙となるのでしょうか。
神様の祝福をお祈りいたします。

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