教区報「はばたく」に掲載のコラム |
2007年12月号 師走の声を聞くと世の中が忙しくなる。行きかう人もせかせかと何かと日頃の歩きと違ってくる。車も押せ押せと怒鳴るように渋滞状態が続く。年末セールを煽る商店街のジングルベルも年々早くなっているような気がする。 水原公立国民学校(現在の韓国・スオン)の同窓会の案内状が届いた。以前は数年おきに開催されていたものが、最近残り少ない時間を惜しむかのように毎年開かれている。関東にいる同級生から、先輩が次々と役員を辞退して、お鉢が廻ってきた。今回が最後になるかも知れないので、どうか出席して欲しいというメールも届いた。考えてみると、年々顔馴染みの先輩が姿を消している。終戦当時、私達は小学三年生で当時を知る者としては最後の組。七十一歳という自分の年齢を考えれば、当然と言えば当然だが、戦争を体験し、全てを放棄し、外地から命からがら日本へ引き上げてきた人も本当に少なくなってきた。 2007年9月号 妻が新聞を読んでいる夫になにやら話しかけると、夫は「ふん、ふん」と合槌を打ちながら新聞に夢中。「あなた、聞いてるの」と妻は腹を立てる。コマーシャルの一場面ではないが、身に覚えのある方もおられるに違いない。 先日、韓国プサン市へ行ってきた。国際ワイズメンズクラブ福岡中央クラブとプサントンネクラブとの交流の一環である。 2007年6月号BSA福岡支部企画「キリシタン遺跡巡り」が今回の15回で幕を閉じた。1990年に福岡教会宣教100年記念事業として、A・B・ハッチンソン司祭の墓参ツアーを企画したことが端緒で、足掛け一八年、いつの間にか回を重ねていた。この旅は、「キリシタンの信仰と彼らが残したもの」を探る旅であったが、その地方の背景にある文化を知るために、いわゆる多くの観光地も訪れた。天草、五島、生月、外海、津和野、平戸、大村、プサンなどで素晴らしい景観に魅了されたが、その裏には、拷問に耐えた人々と転びの人々の悲しい物語が残されていた。そして、殉教地を訪れる度に、神様は私達に歴史の事実を通して、この二つの姿(強い信仰と人間の弱さの両面)を示めされているように感じた。復活のイエスがアナニアに語られた「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(使徒言行録9・16)と言う言葉は、今の私達への問いかけではないだろうか。(壹岐) 2007年5月号最近車を運転していて、道が分からなくなり、通りがかりの見知らぬ人に聞くこともなくなった。カーナビに住所や電話番号を入力すれば、ちゃんと誘導してくれるからである。一昔前には考えられなかったことである。ところが、うっかりすると細い路地を右に左にと走らされ、心細くなったころ、目的地が現れホッとすることがある。近道を誘導するようプログラムされていたのだろうが、本通りを真っ直ぐ来れば、何のことはなかったと、目的地に着いてから気付くことがある。 このようにわたし達は、自分の意思で自分の道を決定することが少なくなったような気がする。誰それがそう言ったから、みんながそうしているから、と他人の意見に従う。そのためにわたし達は昔も今も大きなツケを払わされてきた。教会に招き集められたわたし達の道はすでに決まっているのではないかと思う。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14・6)方を信じているから。(壹岐) 2007年4月号某月某日付の某朝刊を開くと、国際面ではインド列車テロ事件、米イラン空爆計画、バクダッドの相次ぐテロ事件、そして悲観的なコソボ独立の解説記事が並び、いわゆる社会面では、宮崎・漁船当て逃げ事件、九電工贈収賄事件、筑前いじめ自殺事件、連続ひったくり事件、中学生の傷害・恐喝事件に、飲酒運転の男逮捕、81歳放火容疑者逮捕、郵便物不配の職員懲戒免職などの記事で埋められている。このように連日事件、事件の記事に読む方も憤慨を通り越して呆れてものが言えない。感動する記事に、滅多にお目にかからない昨今である。怖いのはこのような不快な事件に慣れて、無頓着となることである。何が起こっているのか、その原因は何かを注視することを怠るとその付けがいずれ廻ってくる。「体のともし火は目である。」(ルカ11・34)とイエスは言われた。私たちが輝くことによって主の栄光をあらわすことが出来る。そう確信している私たちではないか。(壹岐) 2007年3月号最近、礼拝中に子どもの声を聞くことも少なくなった。 2007年2月号昨年12月1日の世界エイズデーに、私の所属するボランティアグループが、「エイズ孤児との交わりをとおして」というテーマでシンポジウムを開催した。エイズという重いテーマで、シンポジストが無名の学生、おまけに当日は小雨模様の天気。果たして市民が足を運んでくれるかという不安はあったが、始まってみると120定員の会場は満席。タイ・チェンマイの現状とボランティア活動報告は、生の体験談だけに聴衆の心を打った。
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2007年1月号『ウォーカーズ』というテレビドラマがあった。四国八十八ヶ所巡礼の旅で道連れとなった人達には、さまざまな悩みや苦しみ、悲しみがあった。その巡礼は自分探しの旅でもあった。ドラマの副タイトルに「迷子の大人たち」とあったが、子どもを守る大人たちが迷子状態だから、子ども達が迷子になるのは無理もない。テレビや新聞で、どこそこでいじめがあった。それが原因で自殺したなどの報道は日常茶飯事。関係者の弁も「全く知らなかった、出来るだけ対応した、人員不足で」に終始している。また、若い夫婦が自分勝手な理由でわが子を虐待し、殺す事件も頻発している。これらの現象を誇張して言えば、「世の中総迷子」とも言える。原因を分析することも結構だが、このような時こそ私たちは、内にではなく、外に向ってイエスと出会った喜びを大きな声で伝えたい。パウロは言っているではないか。『そうせずにはいられないからです。』と。(壹岐) 2005年の荒野の声 2004年の荒野の声 2003年の荒野の声 2002年の荒野の声 2001年の荒野の声 |