教区報「はばたく」に掲載のコラム
2009年バックナンバー

2009年12月号

 いよいよ私たちにとって大切なお祝いの時期を迎える。
世界のあちこちで主の御降誕を祝う挨拶が交わされる。
三年前に聖地を訪れた時、ベツレヘムの聖誕教会にある生まれたばかりの幼な子が置かれた場所に、世界各地からの多種多様な人たちがやってきて跪き、ある人は接吻しまたある人は涙を流しながら祈っていた。
その厳かな雰囲気に圧倒され、それまでざわついていた心が一気に静められたのを思い出す。

およそ2千年前、待望の真の救い主が現れた。荒野にいた羊飼いや東方の博士が知らせを受け、幼な子の前に跪いた。
様々な立場や思いを越えて人々が集められたのではないか。彼らは一見力なきその幼な子こそが平和の主であることを悟った。そしてこの幼な子キリストに従っていくことを決意した。

今も世界各地で様々な立場や思いを抱きつつそれぞれ祝いの時を過ごす。
様々な祝いの形があっていいと思う。しかしこの一点、平和の主キリストに従うことを決心するという点では、ぜひ心を合わせたい。(柴本)

2009年11月号

 この秋、たくさんの果物をいただいて幸せな気分になった。
単なる思い込みかもしれないが、きっと果物は神さまが人間のために造られたに違いない。その形を見、味わうとますますその思いは強くなる。
最近口にしたもののうち圧巻だったのはブドウ。遠方から送ってくださったそのブドウは、品種こそ知らないがとにかく大粒。
一粒口に頬ばると話せないほど。またその美味しさに思わず顔がほころぶ。

私たちにとってブドウは高級なイメージ。だが、聖書に登場するブドウは随分雰囲気が違う。
聞くと、パレスチナでは道端の地面に生えた醜い木こそがブドウらしい。イエスさまは自らをそのブドウの木に譬えられ、弟子たちをつながる枝と言われた。
地面で砂埃を受けながら育つブドウ。イエスさまの姿と重なる。
道端の地面に生えた醜い姿は、もっとも深いところ、ありのままの姿でしっかりつながっていることをよく表す。私たちも埃まみれになりながらも、主と、また互いにしっかりつながって実を結びたい。(柴本)

2009年10月号

 神学生時代は東京で過ごした。初めての大都会での生活故の失敗談などたくさんある。
移動にはよく地下鉄を利用した。街から街へ、地下に潜り目的地に着くと地上へ上る。いつしか全く別の空間へ移動するような錯覚に陥った。

ある日車で移動すると、なんと渋谷も新宿も池袋も皆つながっているではないか。当たり前のことに驚いた。つながっているのにつながっていることが分からない。こんなことがよくあるのではないか。

空も海もつながっている。沖縄の澄んだ空や海と、都会の汚染されたそれはまったく別所にあるのではなく、じつはつながっている。実際の空や海には県境も国境もない。時間もつながっている。便宜的に時代は区分されるが、過去は現在そして未来とつながっている。さらに人もつながっている・・・。

分けて考えるのも大切かもしれないが、つながっていることを意識するのはとても大切だと思う。多くのことを他人事として流すのはよくない。きっと自分に、自分の命につながっている。(柴本)

2009年9月号

 朝起きて新聞を取る。毎日毎日たくさんの広告も一緒に届く。じっくり見るのは家電品や衣類、食事や雑貨の広告など。
眺めながらこれがあったらあれも欲しいと考える。すでに持っていてもさらに新しいモノに心を惹かれる。さらにおいしい食べ物を、いいデザインの服をと欲は尽きない。よく買い物へも出かける。必要な時だけでなく気分転換に行く時もある。
聖書にこうある。

「ノアの時代に・・・人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた・・・。ロトの時代にも・・・人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていた・・・」。人間の営みを聖書はこう表す。後半部分で、食べたり飲んだりに続いて「買ったり売ったり」が登場する。
そうか人間はこんなにも昔から買ったり売ったりしていたのか、と妙に納得した。そんな私たちの営みの中に主は突然来られる。モノに目がくらんで、大切な出会い大切な機会を見逃さないために、「モノ想いに耽らないように」注意しよう。(柴本)

2009年8月号

 この春、お世話になった方の訃報に接した。かつて仲間たちとご自宅を訪問した折笑顔で迎えてくださったことを思い返した。
まるで一つの時代が過ぎ去ったように感じた。そして少し心細い思いになった。それはなぜか?

その方は若い頃戦地へ赴き、そこで自らの生き方の転換を迫られる劇的な体験をされた。決して心地良くではなく、自らの罪と向き合う身震いするような経験だったようである。

ある日最前線で敵と向かい合った。殺すか殺されるか、緊張感に支配された一瞬。彼は敵に切り込んだ。返り血を浴びはっとした。「自分はいったい何をしているのか?」浴びたのは血だけでなく、心の内にずしりと響く神さまからの問いかけだったのではないか。

その後、事あるごとに一つの証しを繰り返された。「人間は神さまにしっかりつながれていなければ何をするか分からない」。

こんな実体験からの言葉がますます聴けなくなり、「支え」を失うような心細さを感じる昨今。遺された大切な証しに聴き続けたい。 (柴本)

2009年6月号

 「チャンスはピンチの顔をしてやってくる」。
もう数年前のこと、車で移動中に突如この言葉が目に飛び込んできた。たしか山あいの道沿いの看板に、味のある大きな字で書かれていたと思う。
しかしそこには他に会社名も何も見当たらず、いったい誰が何の目的でしかもこんな場所に立てたのか首をかしげた。けれどこの言葉は印象深く、頭から離れなかった。

チャンスはピンチの顔をしてやってくる。たしかにそうだなぁー。これを書いたのはもしかするとクリスチャンかも、と勝手に思い巡らした。偶然か最近同じタイトルの本も書店に並んでいる。

最近、ある婦人がケガをした。器用に裁縫をこなされる大切な手を複雑骨折してしまった。
最初本人もまわりの人も、なぜまたこんな目に、と考えた。しかし彼女は、ついつい裁縫に没頭しがちな自分の心を主に向ける大切な機会と考えた。
そしてしばらくは仕事をおいて祈り、み言葉に聴くために過ごすことにした。

さすが!さぁ次にはどんな展開が待っているのか。 (柴本)

2009年5月号

 最近気になるのは「ぶれない」という言葉。
大勢が「ぶれないことが信条」「ぶれないことこそ大切」と合唱する。「あの人はぶれる、ぶれない」政治家の評価もよく耳にする。
街を歩けば「決してぶれない」の大きな字。またかと思ってよく見ると、これはデジタルカメラの広告。なるほどカメラはぶれないと助かる。何度大切なシーンがぶれていてがっかりしたことか。しかし人間にとってぶれないことは、それほど大切なのか?

聖書の中で主イエスと対立し続けたファリサイ派や律法学者たちも、ある種ぶれない人たちだったのではないか。
真理を目指して「ぶれない」のであればいい。が、そもそも偏った信念にぶれずにこだわり続けるとしたら、こんな厄介なものはない。

主イエスが、永年苦しみ続けた人の悪霊を追い払う。するとぶれない者たちは、これは悪霊の頭の力による、と言ってのける。驚くべき頑なさである。
主イエスの言葉に動揺し、悩み、考えや生き方を変更する。こんなぶれは大切ではないか。 (柴本)

2009年4月号

 親からのプレゼントの中身を見た時、思わずのけぞってしまった。そのプレゼントとは、小学生から高校生までのわが通知表の束。手に取ってしばらく考えた。内容はだいたいわかっているし開けば辛くなるのは間違いない。このままシュレッダーに突っ込んでしまおうか。でもあれから30年。せっかく取り置いてくれたことを思えばムゲにもできない。

しかしショックなアヒルとタヌキの行列はよしとして、先生の所見欄はなかなか興味深い。人に話すようなことでもないが、あえて紹介すると、「お友だちと遊び、作業は一緒によくでき楽しそうですが、道具のかたづけが、いわれないとできないようです。」「まじめな生活態度でした。計画性、積極性を発揮したら、さらによいと思います。」

  なかなか成長できない人間の見本を見るようである。そしてまた、職務とはいえ幼き私をしっかりと見つめ心配してくれた人がいる。だからこうして生きているのかなとも思う。高慢になりそうな時にはまたこれを開こう。 (柴本)

2009年3月号

 毎日考えるのは物事の優先順位のこと。今日は何からとりかかるか。その時考えるのでは何かとロスが多い。そこで週の始めに表に書き並べ見極めるようにしている。しかしそんなことを繰り返しながら、つくづく何を優先すべきかの判断の難しさを思う。

重なる聖書の話に触れた。主イエスがある人に「わたしに従いなさい」と声をかけられた。するとその人は「まず父を葬りに行かせてください」。また別の人は「まず家族にいとまごいに行かせてください」と言った。家族に関わることは当然大切なこと。しかしその大切なことよりさらに優先すべきものがあると主は示されたのではないか。

  いつも言い訳し重要なことに取り組まない自身を見る思いがする。でも単なる言い訳ではない。誰もが納得する事情だ。と尚も言い訳する。それでも優先させるべきものがある、と主は私たちに迫られる。結局やりたいことはやる。いつでも自分のことが最優先。そうでなく主の示されることを最優先。そんな癖をつけたい。(柴本)

2009年2月号

 冬の厳しい寒さは堪えるが、どうせ寒いならいっそのこと雪が積もればいいなと思う。年に二、三度だろうか、朝起きてカーテンを開き、そこにキラキラ輝く銀世界が現れると、辛い気持ちは吹き飛びわくわくした気持ちになる。そしてさっそく外に出て、誰も踏んでいない雪の上を歩いてみる。誰も踏んでいないところ誰も行ったことのないところを歩きたい。人間の心にはそんな欲求がいつもあるのかもしれない。

 さて、では雪の上を真っ直ぐ歩くにはどうしたらいいか。これがなかなか難しい。足元を注意深く見ながら、慎重に、交互に足を置いてみても、大分進んで振り返れば結構蛇行しているのが分かる。ある時コツを教わった。それは単純なことだが、足元ではなく遠くに立っている木などを目標に、それを見つめながら歩いていく。すると不思議に真っ直ぐ歩ける。目標を据える、これが大切。新しい年を迎えて一ヶ月。今年はどう歩むのか。そもそも自分はどこへ向かって歩いているのか、再度点検したい。(柴本)

2009年1月号

新任地で新しく始めたのはウォーキングー。これがなかなか気持ちいい。だんだんと体が慣れ太腿の筋肉がグイグイ力をつけているのが分かる。歩いていて気づいたこと。それは一人で歩くのは楽だが二人はなかなか大変ということ。とくに自分のペースができてくると人に合わせるのはしんどい。歩くだけならまだいい。でも大切な取り組みではこうではいけないのではないか。

聖書学者のウィリアム・バークレーは、その著書の中で、「教会同士で大切な働きを協力できない姿がある」と憂えた。そして、「協力の増大と競争の減少、同情の増大と批判の減少、理解の増大と嫉妬の減少を必要とする、と説いている。キリスト者同士も教会同士も、大切な宣教のためには自分の思いやこだわりを置いて、むしろ惜しみなく協力し合う必要がある。なぜならインマヌエルの神さまは、私が歩く時には一緒に歩いておられる。相当に気遣いと苦労をかけているに違いない。ならば私たちも人に合わせることを放棄しまい。(柴本)


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