目を上げて

教区報に毎月掲載されるルカ武藤謙一主教のメッセージ
トップページへ戻る
2018年バックナンバー

2018年12月号

 先日、私の大好きな長嶋茂雄の知られざるエピソードを紹介する番組を見ました。
引退試合当日、観衆がスタンドから降りてくることを恐れてしないことになっていたのですが、ダブルヘッダーの第一試合が終わった後、長嶋本人の希望で外野を一周したときのこと。
立ち止まり涙を拭く長嶋をみんなが見守り、誰一人グランドに降りてくる人がなかったという話。
地方のうなぎ屋さんで借りたバットを持って二階に上がって二時間、長嶋が帰った後で従業員が擦り切れた畳を見て驚いた話。
試合後に自宅に戻ってからいつも深夜二時までバットを振っていた話。
「一人の時間を大切にしない人は駄目ですね」という自身のコメントも、長嶋が決して天才ではなく努力家だったことを思わせるものでした。

 一番印象に残ったのは、その番組の中で日本放送のアナウンサーの方が語ったことです。
ある日長嶋が『「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ」というのはよくない、「雨ヲ喜ビ、風ヲ楽シム」だよ。』と言ったとのこと。
長嶋はどんな時にも前向きにとらえていたとのことでした。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一第五章一六節〜一八節)が思い浮かびます。

 教会の暦は新しい一年が始まります。
この一年折々に与えられた恵みと導きに感謝です。
嬉しいことだけでなく、苦しかった時や辛かった時にもきっと神の恵みがあったことでしょう。

その感謝の心をもって、新しい年も、すべてのことを相働かせて益としてくださる神に信頼して歩みたいものです。


2018年11月号

 以前勤務していた教会のIさんからメールが届きました。
Iさんのお連れ合いであったNさんは三年前に逝去されておられるのですが、そのNさんのお母様に洗礼を受けさせたいと言われたのはNさんで、兄弟たちの了解を得て、Nさんが逝去される一カ月前に洗礼を受けられたそうです。
将来的にNさんの実家の菩提寺を守る方がおられず実家の墓は終うことになり、遺骨はNさんと同じ教会の共同墓地に埋葬されるとのこと、Iさんは、妻がどこまで考えて洗礼を受けさせたいと言い出したのか分かりませんが、親子が同じ場所に納骨されることになったことに「神様のご計画は測り知れないと痛感してる次第です」と記していました。
Nさんの逝去は突然のことでしたから余計にそう感じられるのかもしれませんが、既に亡くなられた方の祈りや願いが、今を生きる人たちのうえに実現することがあると思わされた次第です。

 この世の旅路を終えられた方々は主のみもとで、わたしたちを見守っておられるのですから、世を去った後もわたしたちのために祈っていてくださる存在でもあることを考えれば当たり前のことなのかもしれません。
普段意識することはありませんが、天に召された方々の祈りにわたしたちが支えられていると思うと、力づけられ励まされます。

 「はばたく」によれば昨年の諸聖徒日以降、九州教区では十名の方々が主のもとに召されました。
信徒ではなくても親族や友人で召された方がおられる方も少なくないのではないでしょうか。

十一月は「死者の月」とも呼ばれます。
天におられる兄弟姉妹を通して与えられた恵みを感謝し、一人ひとりの魂の平安を祈りたいものです。

2018年10月号

 一六二一年、一人の日本人がマニラにあるドミニコ会の修道院を訪ね入会を希望します。
トマス西ひょうじ兵次です。
彼は熱心なキリシタンである両親の次男として生月島(長崎県)に生まれ、幼少期には有馬(現在の島原)のセミナリヨに学びますが、徳川家康の全国的禁教令によってマニラに逃れてきます。
マニラのドミニコ会は彼を大学で神学などを学ばせて様子をみますが、その信仰と勤勉さを認めて入会を許し、一六二四年には司祭に叙階します。
司祭になった彼は、すぐに日本で働くことを希望し、一六二九年十月に密かに長崎に上陸します。
その後京都、長崎、広島の宮島、大阪と迫害者の探索を逃れて転々と場所を変えながら秘跡を行って信徒を励まし、最後はまた長崎に戻ってきます。

一六三四年八月にスペイン人神父と共に捕らえられ、三ヵ月にわたって数々の拷問を受けた後、西坂の処刑場で穴吊りの刑によって殉教します。

カトリック教会は一九八七年に彼を含む一六名を聖人としますが、日本人司祭で最初の聖人となったのが聖トマス西でした。

 彼が密かに活動しているとき、マニラのドミニコ会修道院長らに宛てた手紙が何通か残っています。
その手紙の最後には、日本で働く者たちのために特別な祈りを求め、さらにマニラにいる仲間たちにも祈るように言ってくれと求めています。
ある手紙では「あなたがパードレ(司祭)たち、エルマーノ(助修道士)たちに命じて、祈りをするときには、わたしたちを心から神にゆだねるように願ってください。

わたしたちには祈りがもっとも必要なのです。」と結ばれています。

 日々命に危険を感じながら働く彼らにとって、遠く海のかなたでも祈っている仲間がいることが、何よりも励みになり、時に折れそうになる心の支えになったのだと思います。
彼だけではないでしょう。
殉教した一人ひとりのために、数知れない多くの人たちの祈りの支えがあったのです。

 代祷に心を込めて、と思わされています。

2018年9月号

 例年になく暑い日が続いています。
皆さん、お元気にお過ごしでしょうか。
この暑さの中で、今年も中高生のつどいが行われました。
今年は「ジュニア・キャンプ」と呼んで小学生高学年から参加できるようになりました。
場所は長崎市の高島です。
わたしも短時間でしたが一緒に過ごしました。
ゆったりと流れる時間のなかで、心が解放され童心にかえったような想いでした。
参加者は決して多くはありませんでしたが、きれいな海で泳ぎ、生き物に触れ、普段とは違う海辺でのゆったりとした時間を楽しんでいました。
テントに集まっての聖書のみ言葉の分かち合いの時間も参加者にとっては貴重な体験だったと思います。
このキャンプを計画してくださり、また子どもたちとともに三日間を過ごしてくださったスタッフの皆さんに感謝です。

 このキャンプのしおりの最初の頁には「中高生のつどいの目的」として「各教会単位では少ない青少年ですが、九州全体で見れば多くの若者がいます。子ども達が教区に仲間がいることを実感するため、また、信仰の助けとなるために開催しています。」と記されています。
日頃はさまざまな理由で教会に行くこともできない子どももいるかもしれませんが、このキャンプを通して自分がクリスチャンであること、また他の教会にも仲間がいることを実感したことと思います。

 教区内の教会にいる小学生、中高生、青年たちにこれからもこのような体験を少しでも多くしてほしいと願います。
さらに他教区の仲間たち、海外の仲間たちとも出会い、絆を深めていくことが一人ひとりの信仰生活をより豊かなものにしていくと信じます。
この年代ならではの豊かで柔軟な感性で、仲間たちとともに考え、感じ、体験することが、その後の人生の基礎となることでしょう。

 子どもたち、青年たちの教区内の仲間作りもなかなかうまくいかない現状ですが、それぞれの教会で子どもたち、若者たちを育てることを大切な宣教の課題としてくださることを願っています。

2018年8月号

 『戦争は人災です。』 今年の沖縄週間/沖縄の旅で訪れた「わびあいの里」で話を伺った謝花悦子(じゃはなえつこ)さんが最初に語った言葉です。
「わびあいの里」は沖縄本島本部半島から十キロほどにある伊江島にあります。
当時伊江島には東洋一と言われた飛行場があり、守備隊が配備されていたために米軍の攻撃目標とされ、五日間にわたる戦闘で、一般住民約千五百人を含む四千七百人余が犠牲となった島です。
戦後は米軍によって島の六割が軍用地として取られ、爆撃・落下傘降下等の演習地として使用されます。
土地を奪われた農民たちは、生きるために止むなく立ち上がり、米軍を相手に根気のいる長い必死の戦いを続けざるを得なくなります。
長い戦いの中で農民たちは自分たちのルールを生み出します。
「陳情規定」と呼ばれる以下のような約束事です。

一 、米軍と話をするときはなるべく大勢の中で何も手に持たないで座って話をすること耳より上に手をあげないこと

一 、決して短気をおこしたり相手の悪口を言わないこと

一 、うそ、偽りのことを言わないこと

一 、布令布告によらず道理と誠意をもって幼い子供を教え導いて行く態度で話すこと

一 、沖縄人同士は如何なることがあっても決してケンカはしない

一 、わたしたちは挑発にのらないため今後も常にこの規定を守りましょう

 伊江島でも米軍や日本政府の大きな力によっていかに住民の人権が侵され抑圧され続けてきたこと、にも拘わらず、根気強く非暴力の運動を続ける人々の忍耐強さとしなやかさを思います。

 戦後七十三回目の八月を迎えます。
九州教区では九日には長崎原爆記念礼拝が今年も捧げられます。
それぞれの地にあって戦争の犠牲となった方々の魂の平安を、今も苦しむ人々に平安がありますように、そして世界の平和のためにお祈りください。
そして主キリストの平和の器として生きる想いを新たにしたいものです。
「平和の最大の敵は無関心である」(「わびあいの里」に掲げられていた言葉)
「『非戦を唱えてもムダ』というあきらめが戦争を招く」(半藤一利氏の言葉)
心に留めたい言葉です。

 

2018年7月号

 毎主日、教区内の教会を巡杖していますが、どこの教会でも、一緒に礼拝することだけでなく、久しぶりにお会いする信徒の皆さんとお話しできるのも大きな楽しみです。

 先日は一年ぶりに宮崎聖三一教会へ伺いました。
昼食のとき、「何か嬉しかったことをお聞かせください」とお願いすると、お一人おひとりが順番にお話してくださいました。
教会生活のこと、お連れ合いが召されて一年が経ち少しずつ元気になってきたこと、ご家族のこと、ペットのこと、仕事のこと等々。
お一人おひとりの話をみんなで伺っていて笑いあり、突っ込みありで、楽しいひと時でした。

 ある方は、「わたしには長年ずっと赦せない人がいました。それがあるとき、もう赦してもいいのかなと思えるときがあり、それからすっと心が軽くなりました。聖餐式の度に罪の赦しを受け、新しい命に生かされることを実感できて本当に嬉しく思っています」と話してくださいました。

「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」と主の祈りで唱えますが、唱える度に心に引っかかるものを感じられる方もおられるかもしれません。
わたしたちにとって赦すことは簡単ではありません。
時には長い時間が必要なこともあると思います。
赦せない気持ちを抱えながら、それでもなお「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と祈り続けることが大切です。

 赦すのは決して相手のためだけではありません。
赦すことは何よりも自分自身のためと言えるでしょう。
赦せない心を抱いたままでは人は不自由です。
赦せない相手が現れたら、あるいはその人のことを思い出す度に、笑顔は消え、心は凍り付き、冷たくなるでしょう。
赦すことによって自分らしくいることができるのです。

 これから暑さも厳しくなっていくことでしょう。
どうぞこの夏も心も体も健やかに過ごすことができますようにお祈りいたします。

2018年6月号

 四月十三日、熊本聖三一教会で九州地震記念礼拝が捧げられ、二年間にわたる九州地震被災者支援室の活動の区切りとしました。
今後は教区災害被災者支援室の活動として、不定期になりますが支援活動を行っていきます。
この二年間、わたしたちが被災者支援活動を行うことができたのは日本聖公会の各教区、教会また諸施設の皆さんの祈りと協力があってのことです。
特にボランティアとして熊本に来てくださった方々、送り出してくださった方々に感謝です。
海外の諸教会の皆さんの祈りと協力があったことも忘れられません。
また被災した熊本聖三一教会や降臨教会礼拝堂の修復も多くの皆さんの祈りと献金によってなされたこと、本当に主に感謝です。

わたしたちが聖公会という大きな神の家族の一員であることを実感させられました。

 十三日の日中、わたしも支援活動に参加しました。
一区切りとなるのでこれまで関わった方々に挨拶して回るのかと想像していましたが、最初はみなし仮設から新居への冷蔵庫や箪笥など大きな家具の運搬でした。
昼食後には自宅周辺に埋設したU字溝の周囲への土入れ整備など屋外作業が続きます。
最後に訪問した方も被災した家の内部の大工仕事をご自身でなさっていました。
被災当時は誰もが同じような状態ですが、時間が経つにつれて元の生活へと戻れる人と、被災した状態とあまり変わらない人の格差は、開いたハサミの刃のように時間の経過とともに広がっていきます。

まだまだ困難な状況に置かれている方も少なくないことを改めて認識しました。
また同時に、作業の休憩時間に被災者の方が語ってくださる言葉から、これまでの活動を通して本当に信頼され良い関係が築かれていることも分かり、嬉しく思いました。

 わたしたちにできることはごく小さなことでしかありませんが、これからも与えられた出会いを大切にし、丁寧に、心を込めて被災者の必要に少しでも応える働きができるようにとの思いを新たにしました。

2018年5月号

 一月号の「荒野の声」で井上明生兄が紹介してくださった帚木蓬生著の『守教』を大斎節中に読みました。
現在の大刀洗町付近が舞台になっている隠れキリシタンの小説です。
長崎だけではなく福岡にも密かに信仰を守り続けた多くのキリシタンがいたことを知り、改めてキリシタンの歴史に関心を持ちました。
久留米天使こども園の卒園式に行ったとき、教会の本棚に『信仰の道程 今村信徒発見百二十五周年記念誌』を見つけ、お借りしてこれも興味深く読みました。

 いつからキリシタンが今村にいたのかは、はっきりしていないようですが、早ければ大友宗麟の家臣の一人が大庄屋として来た一五五二年にはキリスト教の種がまかれたとのこと、また宣教師フロイスの報告に基づけば一五六一年とのことです。
その後久留米付近の布教は盛んになり、七千人以上の信徒がいたとのことですが、島原の乱以後、キリシタン取り締まりが厳しくなり、一六三九年にはジョアン又右衛門が本郷町獄門場ではりつけにされ殉教します。
彼の遺骸は、密かに信徒たちによって今村の竹藪に運ばれ埋葬されますが、信徒はそこを「ジョアン様のお墓」と呼んで大切に守っていました。
潜伏した信徒たちは、信徒同士で結婚して信仰を守り続けます。
二百年以上にわたって密かに信仰を継承し続けてきたキリシタンの存在は長崎の信徒発見から二年後の一八六七年に明らかになります。

一八七三年キリシタン禁令が解かれるまで、なおさまざまなことがありますが、その後今村に教会が建てられます。
現在の教会は一九一三年に建てられた赤レンガ造りの立派な聖堂ですが、その祭壇の下は殉教したジョアン又右衛門の墓があった場所です。

 久留米天使こども園での卒園式の帰りに、今村教会を訪ねました。
聖堂の静寂さのなかで幾世代にわたって信仰を受け継いでこられた信徒の信仰を思い、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ二四章三五節)
のみ言葉が浮かんできました。

2018年4月号

 〜復活の証人として〜
復活したイエスと弟子たちとの再会について、福音書はそれぞれ違った物語を記しています。
マタイによる福音書では、十一人はガリラヤへ行きイエスが指示しておられた山に登り、そこで復活のイエスに出会います。
ルカによる福音書では、二人の弟子がエマオに向かう途上で復活のイエスに出会い、宿での食事の時、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡した時にそれが復活のイエスだと分かります。
またその二人がエルサレムに戻り弟子たちに伝えますが、そこにも復活の主が現われ、神からの力を与えられるまで都にとどまれと命じます。
ヨハネによる福音書では最初に墓の外で泣いているマグダラのマリアに復活の主が現れ、さらにユダヤ人たちを恐れて部屋に鍵をかけて集まっていた弟子たちの真ん中にイエスが現れます。
また八日後にはトマスも復活の主に出会います(ヨハネによる福音書二一章は後代の付加と考えられています)。
このように物語は違いますが、復活の主に出会った驚きと喜びが伝わってきます。

 ところがマルコによる福音書には弟子たちが復活のイエスに出会った報告がありません。
安息日が終わると婦人たちは墓に行きます。
そして墓の中で白い長い衣を着た若者に会い、イエスが復活したこと、そして弟子たちとペトロに『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と告げよと言われるのです。
そして福音書は「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」で終わっています(十六章九節以下は後代の付加と考えられています)。

復活のイエスに会う場所はガリラヤである、とだけが告げられていますが、実際に弟子たちがどのように復活の主と再会したのかは記されないままです。
ガリラヤは弟子たちの生活していた場所であり、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれて蔑まれていた地域で、イエスが宣教活動を行った場所です。
何故マルコはこのような終わり方をしているのか。
わたしは、この福音書を読んだ者は、それぞれのガリラヤで復活のイエスと出会い、その出会いの物語を伝えていきなさい、ということではないかと考えます。
この福音書は「神の子、イエス・キリストの福音の初め」という書き出しで始まります。
イエスが復活されたところまでが「福音の初め」であり、その後はこの福音書を読んだ一人ひとりが、復活のイエスとどこで、どのように出会ったのか、どのように変えられ、どんな喜び、力、また希望を与えられたのか、それぞれの生き方を通して語っていきなさい、ということだと理解したいのです。

他のだれかではなく、わたしたち一人ひとりが復活の主の証人であり、主の福音を宣べ伝えていくのです。

 主イエス・キリストのご復活を心からお慶び申し上げます。

2018年3月号

 妻の両親から贈られた雛人形。
娘たちが小学生のころまでは毎年飾っていましたが、何時の頃からか飾らなくなり、福岡に来てからも物入れの一番奥にしまったままになっていました。
ところがある日家に帰ると十何年ぶりに飾られています。
雛人形の前で笑っている子どもたちの写真も出て来て懐かしく見ました。

 雛祭りのルーツを調べてみると、中国の「上巳(じょうし)」の節句だとのことです。
中国では三月三日に、水辺で身を清め、穢けがれを払う習慣があり、これが日本に伝わり、三月三日には穢れ払いの儀式が行われるようになったとのこと。
奈良時代には紙でできた「人形(ひとかた)」が登場し、平安時代には人形に厄を移して川に流す「流し雛」が誕生しました。
昔は食料や衛生の面などを考えても、成人する前に亡くなってしまう子どもたちが多くいたことでしょう。

我が子が無事に育ちますようにとの願いを込めて人形を川に流したのではないかと想像します。

 そんなことを思っていたらイザヤ書の「苦難の僕しもべ」のことが思い出されました。
「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼が受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書五十三章四節・五節)
わたしたちにとっての「苦難の僕」は主イエスです。
主イエス・キリストはわたしたちの罪の贖いとして十字架にかかり、その死と復活によって、わたしたちの罪の赦しと永遠の命を与えてくださいました。
大斎節を迎えています。主イエス・キリストの十字架をしっかりと仰ぎ見るときとしたいものです。

2018年2月号

今年も多くの方からクリスマスカードや年賀状をいただきました。
高齢になられてなお仕事や教会生活に励んでおられること、また幼稚園や保育園で出会った子どもたちが中学生、高校生になるなど、日頃ご無沙汰している方々の様子や想いを知ることができ、懐かしく一人ひとりのお顔を思い浮かべながら拝見しました。
そのなかで特に印象に残ったのはある女性からのものです。

 「先日、七十三年前のノートが出てきました。

 戦争末期、空襲で家が焼かれ地方へ疎開する友人たちの別れの言葉が書かれています。
そのどれも〝また会おうね〟という希望の言葉ではなく、〝絶対、死なないでね〟と結ばれていたのです。
私は胸が詰まりました。
当時の私たち、未来への希望も選択肢もない十六歳の青春でした。

 戦争が起こりそうな気配を感じるこのごろです。子どもたちに、私たちのような辛さを経験させてはならないと心から真剣に願っています。
すでに八十八歳、絶滅危惧種となった私のただ一つの願いは平和です。」

 戦争中、別れの言葉が「また会おうね」ではなかったという事実。
十六歳の若者たちにとっても将来の夢や希望よりも死の恐怖が身近なものであったことが分かります。
このような体験をされているからこそ、今の時代に不安を感じ平和を真剣に祈っておられる、その切実さが伝わってきます。
わたしもまた、「平和を」というこの方のただ一つの真剣な願いを自らのものとして受け止め直したいと思ったのです。
昨年を象徴する漢字に「北」という字が選ばれました。
この字は「人と人とが背を向けている様子」を表しているそうです。
相手に背を向けて脅威や不安を煽るのではなく、いのちの尊さにおいて等しい者として信頼をもって向き合い、語り合うことを大切にする社会であってほしいものです。

 大斎節が始まります。主キリストから委ねられた和解の務めを果たす平和の器として自らを整える時としたいと思います。

2018年1月号

「わたしの魂よ、主をたたえ すべてをあげて、尊いみ名をほめ歌おう」 (詩編一〇三編一節)

十一月に行われた第一一二教区会はすべての報告と議案が承認・可決され、新しい年の歩みが始まろうとしています。
この教区会のトピックの一つは教区体制の見直しです。

宣教合同会議を中心として次の教区会までに見直すことになりました。
それは教役者不足、信徒の高齢化、教区財政の逼迫など様々な要因によって今までの体制を継続していくことが困難になってきたからです。
先日、教区会後の最初の宣教合同会議が開催され、さっそくこの課題についても自由に意見を出し合いました。
その議論を通して気づかされたことは、体制を見直すとは、単に組織をスリム化すること、無駄をなくすこと、今までしていたことの何かを止めること、教区財政規模を縮小することではなく、今、教区の最優先の宣教課題は何かを考えることなのだということです。
各部会、各委員会がその宣教課題を共有し、それぞれの在り方を問い直していくことが、体制を見直す大切な視点だと改めて考えさせられました。
さらにそれはわたしたちが何を最も大きな喜びとするか、あるいはどんなことに喜びを見いだすかということでもあります。
それは個人にとっても同様です。
わたしたちは何を大切にし、どこに喜びを見いだしているのでしょうか。

 冒頭の詩編は、新しい年の最初の日(主イエス命名の日)の「朝の礼拝」で唱える詩編の冒頭の一節です。
新共同訳聖書では「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって 聖なる御名をたたえよ。」となっています。
「わたしの魂よ、主をたたえよ」で新しい一年が始まるのです。
思うようにならないことも多いかもしれませんが、だからこそ「わたしの魂よ、主をたたえよ」を大切にしたいと思うのです。

主イエス・キリストのご降誕をお祝いし、新しい年も主の祝福が豊かにありますようお祈りいたします。

目を上げて(本年)へ

バックナンバー

2018年の「目を上げて」
2017年の「目を上げて」
2016年の「目を上げて」
2015年の「目を上げて」
2014年の「目を上げて」
2013年の「目を上げて」


E-mail: d-kyushu@ymt.bbiq.jp


日本聖公会九州教区