2016年バックナンバー |
2016年12月号
ヨブの信仰十二
ヨブ記の最後の部分、三十八章からはヨブの苦痛と問いに対して神が回答した場面です。
ところで神のこの回答は、ヨブに直接答えたというよりは聖書全体に流れている神と人間の関係、人間のアイデンティティについての説明です。
被造物としての人間は創造主の神を憶え称賛するということです。
世の中の大抵の価値観は、人間個人の成就や発展に中心を置いていますが、聖書とキリスト教の歴史、聖霊の歴史は人間を被造物として理解しようとします。
自分の成就、発展のために何かを作り出す存在で生きていくというより、自分は創造主によって作られ、今も作られつつあるというのを認識するのが重要だということです。
そしてこのような認識、信仰の上にいる時、はじめて愛にもとづく、偽善のない人間らしい暮らしが可能だと語っています。
それゆえに聖書、キリスト教が追求する霊性、歩もうとする道を一言で言うと、被造物の霊性、被造物の道だと言えると思います。クリスチャンは世の中のいかなる価値観にも先立ち、この被造物の霊性、道を行こうとする人だと思います。
(司祭 李 相寅 )
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2016年11月号
ヨブの信仰十一
聖書のサタン・悪魔が人間の普遍的な苦痛と矛盾の原因となっている存在とするなら、神はそれらを含め、同時に越えた超越性を持っている存在です。
聖書に登場する中心人物、アブラハム、モーセ、預言者たち、ヨブに至るまで、彼らは自分たちの能力と努力、人間の能力、努力では解決できない普遍的な苦痛、矛盾が、外部からのある力、外部からもたらされたある出来事によって克服される経験をします。
そしてそんな力と出来事を通じて超越的な力と愛を持っている神が存在すると信じるようになりました。
こういう意味で聖書が言う神は、単なる個人的な願いの成就のための神として理解されてはいけません。
それを含め世の普遍的な矛盾と苦痛を克服できる、外部的な力と愛、つまり超越的な神の国、神として理解できなければならないのです。
そしてこのような理解は、イエス様が教えてくださった主の祈り、そしてイエス様の十字架の死と復活を通じてより鮮明に現れます。
(司祭 李 相寅 )
2016年10月号
ヨブの信仰十
ヨブ記ではヨブに苦痛を与えて試みるサタンが登場します。
私たちはこのサタンに対してもっと幅広い理解を持つ必要があります。
普通サタンと言えば、邪悪な存在として、怪奇かつ異様な姿で、人をいじめて、罪を犯させ、苦痛を与える存在に思います。
しかし、ヨブ記を含め聖書の記者たちは最初からサタンをある形や属性を持つ存在とは考えていませんでした。
彼らは自分たちの特別な経験と洞察力で、人間にはどうすることもできない世の矛盾や不合理、罪と苦痛を直視しました。
そして見えず、触ることができないが、その背後に確かに存在する勢力を認知しており、それらをサタンと呼ぶようになりました。
サタンが登場するヨブ記の話は多少抽象的であったり、隠喩的に聞こえますが、むしろそれは世を無視したり歪曲することではなく、世の矛盾や不合理、人間の罪と苦痛を込めた普遍と真理の話です。
そのような意味で、ヨブの話は私たち皆の話です。
(司祭 李 相寅 )
2016年9月号
ヨブの信仰九
「主よ、ただお言葉をください。そうすればわたしはいやされます」という祈祷は、神の沈黙と関連したお祈りです。
苦難の中、世や人の理性、理解、知恵としては受け入れることはできず、そのような考えや感情はまるで神の沈黙として感じられるのです。
このような神の沈黙はキリスト教の霊性、信仰の道を歩む上で重要であり、超えなければならない過程でもあります。
霊性と信仰の道で、神が沈黙するように感じなければ、その霊性と信仰は自分の基準、理解の中にとどまっている可能性が高いからです。
神の沈黙後、我々は自分の基準、理解、枠を破った、自分を超えた神に遭遇することになります。
そして聖霊の助けによる、過去の自分を超えた新たな自分になるのです。
そして新たな自分は神と通じ合うことになります。
「主よ、ただお言葉をください。そうすればわたしはいやされます」という祈りは、過去の自分による神の沈黙と新たな自分による神との交わりを同時に述べているのです。
(司祭 李 相寅 )
2016年8月号
ヨブの信仰八
ルカによる福音書七章一│十節は、百人隊長が重病の僕のため主にお願いした場面です。
そしてその中の六│七節は、短いが深い内容を盛り込んでいる。
有名なキリスト教の祈祷文の基盤になることもあります。
「主よ、わたしはあなたをお迎えできるような者ではありません。ただお言葉をください。そうすればわたしはいやされます。」
苦難の中のヨブは、神にこの祈りをしていると言っても過言ではありません。
世と人の理性、知恵では理解できない苦難に対して、神に聞いているのです。
ヨブは、過去には自分の人生をある程度理解し解釈ができ、それをもとに神と疎通をしていると思いました。
しかし、今の苦難の中では神と疎通されていない感じ、世と神から疎外された感じを持つようになったのです。
つまりキリスト教の霊性の重要な関門、神の沈黙を経験しているのです。
その沈黙の前にヨブはお祈りします。
「ただお言葉をください。そうすればわたしはいやされます」
(司祭 李 相寅 )
2016年7月号
ヨブの信仰七
ヨブとヨブの友達が見つめる世は異なります。
友人たちにとって世は人が理解できる合理的な秩序があります。
例えば道徳、律法などが中心となってそれらをよく守ればそれに相応するものが出てくるということです。
一方、ヨブにとって世はそんなに単純ではないと考えます。
ヨブは単純ではない理由、人間が理解できない苦痛と罪が存在する理由を追求しながら、人間が理解できない秩序がまたあるだろうと予想します。
友達はヨブのこの考えに信仰がないことだと非難します。
しかしヨブ自身は信仰を失ったことがないと言います。
友達は自分たちの信仰を道徳と律法の中に閉じ込めて現実を無視しようとしていましたが、ヨブは神に向けた絶対的信頼の中で現実を見つめたのです。
ですからそんな思い、予想をするようになったのです。
ヨブは自分の信仰、自分の現実の間で、切実に言います。19章26節です。「この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。」
(司祭 李 相寅 )
2016年6月号
ヨブの信仰六
ヨブは〝罪がなくても苦痛を受ける〞と主張します。
この言葉をもう少し拡大解釈してみると次のように説明できます。
世の中には個人や人間の能力や努力で解決できない、手に負えない罪と苦痛があるということです。
最近私たちの時代、個人と人間が中心になるこの時代には罪と苦痛が解決できるといわれます。
なぜなら科学と技術が発達すればするほど罪と苦痛は解決されるという信念を持っているのです。
ところがこういう信念は罪と苦痛をあまりにも軽く見る行為、または根源的な罪と苦しみに対しては背を向ける行為ではないでしょうか?
ヨブは自分又は人が解決できない罪と苦痛があると冷徹に見つめます。
そしてそんな罪と苦痛、悪の勢力から救済してくれる存在は世と人間を超えている神と信じて、祈ります。
ヨブ記14章17節です。
(神よ)『私の罪を袋の中に封じ込め、私の悪を塗り隠してください。』これが神によって罪と苦痛から逃れよう救われようとするヨブの信仰の一部分です。
(司祭 李 相寅 )
2016年5月号
ヨブの信仰五
ヨブの友達はヨブの苦痛が個人の罪によるものだと言います。
皆さんは友達が本当にヨブのためにそのような助言をしていると思いますか?
それとも助言の後ろに友達の隠された心が存在しているのではないでしょうか?
普通の人は苦痛の中にいたくありません。
それでそこから脱するために意識的であれ無意識的であれ努力します。
おそらくこんな心が友達に存在したのでしょう。
それでヨブの苦痛を個人の罪におき、自分たちはその苦痛、罪と関係ないという一種の、安定を望む心が作用したのかもしれません。
そして苦痛の中にいたくない心が因果応報の神を信じて、その信仰をもとにヨブに助言をしたわけです。
このように因果応報の神を信じる人は苦痛の中にいたくない心が存在します。
一方クリスチャンが信じる神は苦痛に心を寄せてくださり、苦痛と共に居られるインマヌエル神だということがイエスの十字架の死と復活で分かるようになりました。
(司祭 李 相寅 )
2016年4月号
ヨブの信仰四
ヨブは友達の慰め、助言を拒否します。
そしてその後、彼は神に対する信仰の問題に至ります。
この問題がヨブ記の核心テーマでもあります。
先にヨブは自分は罪がないと言います。
ヨブ記で、ヨブは罪のない人が苦痛を受けるという象徴的な人物として登場しています。
つまり人なら持っている普遍的な質問、なぜ罪のない人が苦痛を受けるのかという質問を導く人物がヨブです。
一方、友達らは、苦痛は罪によるものだと主張します。
友達はヨブ自身が罪がないと言うが、ヨブ自身も知らない罪があり、神がその罪を審判するために苦痛を与えるのだと言います。
そしてこのような苦痛は罪を悔悟させ、成熟するきっかけとなるべきだと述べます。
友人たちは終始、因果応報の神を強調しているのです。
そんな友達の考え、主張にヨブは言います。
「そうではない、罪がなくても苦痛を受ける、だから、因果応報の考え方で神を理解して信じることは正しくない」と主張するのです。
(司祭 李 相寅 )
2016年3月号
ヨブの信仰三
ヨブ記はヨブとともに三人の友達が登場します。
彼らはヨブと信頼関係を維持していました。
その関係がヨブの苦難と苦痛によって揺れ始めます。
最初に彼らはヨブの苦難と苦痛を見て彼を慰めます。
しかしヨブは彼らの慰めを受け入れません。
ヨブは彼らの慰めに共感できなかったからです。
このようなヨブの態度を皮切りに、友達とヨブの関係は崩れ憎悪する段階にまで至ります。
信頼した関係が憎悪する関係に変わったのです。
ヨブは言い尽くせないほどの苦痛のなかにいます。
全財産と名誉を失い、子どもを失い、皮膚病を患ってヨブは生きるべき理由、意志を失った状況に置かれています。
私たちの周囲でも苦しんでいる人がいます。
我々もそのような状況に置かれることがあります。
そんな時、私たちはどんな慰めに、共感できるでしょうか?
ヨブのように人の慰めに全く共感できず、むしろ距離感を感じるようになることもあるでしょうか。
(司祭 李 相寅)
2016年2月号
ヨブの信仰二
ヨブ記一章で登場する存在はヨブと神、そしてサタンです。
一章でヨブは非常に祝福された人として、多くの財産や子孫、人からの尊敬を受けている人であり、神を畏れる信仰心も持っています。
このようなヨブについてサタンは神の前に次のように評価します。
ヨブの信仰心は自分の財産、子孫、名誉を与えた神を信じているのだと言います。
それでもし彼から財産と子孫と名誉を奪ったら彼の信仰心は崩れるはずだと言います。
一章九│十一節。ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか。
ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。
面と向かってあなたを呪うにちがいありません。
このサタンの言葉を通じて、我々の信仰にも一度、問い直したらいいのではないかと思います。
私の信仰の対象である神はどんな神か、私の所有、私の中心から始まった神なのか考えてみると良いと思います。
ヨブ記はこのように信仰に対する根本的な問いかけから始まります。
(司祭 李 相寅)
2016年1月号
ヨブの信仰
小倉インマヌエル教会では毎週水曜日に集まって聖書を読んでいます。
今年六月からはヨブ記を選択して学んでいます。
ヨブ記は皆さんがよくご存じのように苦痛と疎外、死を控えたヨブに関する話です。
我々は日常の中でいつも経験する苦痛、疎外、そして死から逃れたいと努力します。
考えてみれば私たちが追求するものは、それらを忘れたい努力なのかもしれません。
このような主題を象徴的に記しているヨブ記を読みながら、聖書とキリスト教はこれらについてどう考えて答えを出すのか問われます。
究極的なこの質問に宗教が全然答えられず無視しているというなら、それは真の宗教とは言えないはずです。
聖書とキリスト教もこの質問を無視して避けているなら、真理と愛を追求する宗教、キリスト教とは言えないはずです。
聖書とキリスト教に対して挑戦する心、信頼する心で読んでいるヨブ記をわかちあった内容を二〇一六年の教区報〝はばたく〞の「荒野の声」に掲載します。
(司祭 李 相寅) |