最新メッセージ |
2023年9月号
「生命第一」という言葉がある。しかし、私たちは命を奪い、命を食べて生きている。
世界の戦場では殺人が日常となり、トルコとシリアでは何十万人もが地震で命を奪われている。
人々は、何もできない無力を思い知る。
卑怯にも、自分の生命の無事に安堵さえしている自分がいる様な気もする。
わが国では、「生命第一」のおかげで高度な医療インフラが整備されてきたものの、社会とのつながりもなくひとり彷徨い、介護や認知障害などに悩まされている高齢者が少なくない。
医療や介護や年金の負担はますます大きくなる。
高度な医療は病気を治しうるが、老化や老衰は直せない。
生命第一を「自分の生命第一」と理解した場合には、他の生命との競合や争いが避けられない。
自分(達)だけの閉じられた安全安心な空間を創り、そこに閉じこもることが「生命第一」ではないだろう。
覚悟を伴い、人間以外の見えないような小さな命までも含めた開かれた共生の社会が生命第一の社会ではないかと思いたい。
(早瀬隆司・長崎)
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2023年8月号
23歳で早世した瀧廉太郎の没後120周年。
最期を過ごした大分での様子を話して欲しいと。
ドイツ留学直前に東京の博愛教会(後の聖愛教会)で洗礼・堅信式を受ける。その直後、あの有名な『荒城の月』を作曲。
留学も病気のため帰国。
大分では、聖公会のブリベ師を訪ね、お話やご馳走を楽しみにしていたと。
大事にしていた廉太郎の十字架の飾りの付いたネクタイピンを運動会で失くしたことを悔やむ妹。
そして、遺稿となった『憾うらみ』というピアノ曲は「心残り」という意味。最後は十字架を暗示するように右手と左手が交差する。
キリスト教との出会いが音楽と人生に与えた影響は計り知れない。
彼の音楽をもっと聴きたかった!
(菅孝子・大分)
2023年7月号
朝ドラの「らんまん」が話題になっている。
草花に関心の薄かった人も散歩しながら「この花の名前は何だろう。」と牧野富太郎風に考えてスマホで検索したりフェイスブックに投稿したりする人が増えたと聞く。
花の癒しのパワーは思わぬ所で発散したりする。
小学校で廊下を走る児童が絶えなかったが、廊下に花を飾ったら走る児童が減少したという事例もあった。
私は花を見るとき神の愛を感じる。そして神のメッセージが込められていると思う。
名もなき野の花の素晴らしさを神はマタイ12章22節から32節で「野の花がどのように育つのかよく学びなさい。…しかし言っておく『栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった』と。」とはいわ信仰薄き私はどはいつも「何を食べようか」「何を着ようか」と思い煩っている。
鳥や花たちは働きもせず紡ぎもしないのに神は美しく飾って下さる。
はい、「思い煩わず神の国と神の義を求めなさい。」ということですね。少しでもその義に近づけますように。
『ソロモンの栄華を凌ぐ草の花』
(平岡 加久子・熊本)
2023年6月号
以前のカンタベリー大主教に、勇気を振り絞って質問をしてみたことがあります。
「私の生家には仏壇と神棚があり、そこにはいつも私たちを見ている神仏がおられるように思って育ちました。
仏教にも、如来、ブッダ、霊魂という三位に似た構造があります。
キリスト教は唯一神だというけれども、仏教などにも同じような魅力を感じます。
このような信仰で許されるでしょうか?」この世の中では、「我々の国が一番だ」から「俺は環境に優しい」まで、どこかで線引きをして他者と自分(達)を差異化することが常です。
私は「差異」よりも「一致」の重要性についても含めて、主教のお考えを聞いてみたかったのです。
主教は、それでいいです、ただ一つ覚えておいてほしいのは、イエス様が私たちのために十字架にかけられたことです、という趣旨のお言葉をくださいました。
一致について否定はなさらず、忘れてはならない違いを教えてくださいました。
向こう見ずな私は、納得し、十字架に対する感謝と認識を深めねばならないと深く反省しました。
(早瀬 隆司・長崎)
2023年5月号
映画『対峙(たいじ)』を観た。
米国の高校での銃乱射事件の加害者側と被害者側の親が6年後に面会する。
映画のほとんどは4人だけの対話。
対話を可能にさせる条件の一つは、双方が対等な立場であるという意識が必要だといわれている。
双方の子どもたちが亡くなっているので、立場が違えども、4人は被害者という意味では対等だ。
双方がそれぞれの思いを正直に話し、そしてそれを黙って聴き合う。
時には感情をあらわにしながらも、双方は言葉を選び、双方を気遣い合う場面もあった。
原題は『Mass』。
「キリスト教のミサ」と「大量(殺人)」という意味を兼ねているのだろう。
映画では聖公会の教会の集会室が使われ、テーブル奥の十字架のキリスト像が、静かに4人の対話を見守っているように思えた。
映画の最後に流れたのは『聖歌集』の493番「愛のわざは」。
教会入り口にさりげなくあった「God with us」という言葉も印象に残った。
対立する世界情勢の中を生きる今の私たちに、「対話の可能性」を教えてくれる作品でもあった。
(菅 孝子・大分)
2023年4月号
空前の俳句ブームである。
私も2年前から詠み始めたが、俳句は五・七・五の17音の詩であるといわれる。
説明や報告ではなく読者に情景を思い浮かばせ詩情を感じてもらう。
聖公会の祈祷書の中にある詩編は韻を踏(ふ)み美しいものが多いが、語彙の含む背景を感じなくてはいけないのかもしれない。
聖霊とは何か、はっきり説明できないもの、聖なるもの、心に響くもの、その聖霊を詩編の中に感じなくてはいけないのではと思う。
Ⅱコリ4:18「わたしたちは目にみえるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」とあるが、俳句でも言葉で言い表せないものこそ大切なのではないか。
サン=テグジュペリ作「星の王子さま」の中でキツネは言う、「心で見なくちゃものごとは見えないってことさ。
かんじんなことは目に見えないんだよ。」と。
そして王子さまは言う、「砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているからだよ。」と。
「碧(あお)い星砂漠の底の泉照らす」砂漠の底に泉を見つける気持ちで日々暮らしたいものである。
平岡 加久子(熊本)
2023年3月号
久しぶりに高校時代の旧友たち2人と議論をすることとなった。
かっての美少年たちも、今や経験豊富なお歴々である。
石油依存の文明の時代から新しい文明の時代への転換が始まっているかどうかで意見が分かれた。
文明の転換は壮大な人間活動に依存しており、なかなか簡単ではないであろう。
それぞれの地域にある資源を地域の恵みとして活用して公平な自律分散社会に向かう必要があるという私の主張に対して、彼らは「そうはならない」と言う。
私の発言の中には、理想を求めたある価値観が入っているのに対して、彼らは現実認識で対抗する。
理想の社会を、神の国を思い描いてともに歩んでいきたいと思うのだが、クリスチャンではない彼らにイエス様の真を持ち出しても通じそうには思えない。
教会の外に出て、日本の社会の中で、神様の真をどのようにして伝えれば良いのであろうか?
一歩踏み出せなかった自分には確信(信仰)が足りないのではないかと自問自答である。
早瀬隆司 (長崎)
2023年2月号
タイトルに“荒野”という言葉があり、“荒野とは神と出会う場所”だという司祭の説明を思い出した。
「自分の経験の中での神との出会い」について書かなくてならないとは、なんと荷が重いこと!
初めての執筆。軽いテーマで書かせてください。
我が家に放置されていたグランドピアノを教会に引き取ってもらったのが3年以上前。
コロナ禍と重なり、2022年になって、多目的にピアノが使われるようになった。
先日、幼稚園の卒園児で東京交響楽団のコンサートマスターの水谷晃さんの演奏が園児向けに開かれた。
当教会のオルガニストがピアノ伴奏を担当。リハーサルを見学した。神様からの賜物のような演奏。
園児の心に響いただろう。
教会を地域に身近に感じてもらうために、音楽の果たす役割は大きいと思う。
他の教会の知人たちから、「教派を超えた音楽活動に地域の人にも参加してもらおう」という企画もある。
コンサートなどで初めて教会に来られた方たちと、どう関わっていくかも大きな課題だ。
(ナンシー 菅 孝子)
2023年1月号
今、降臨節の中でこの文章を書いている。
降誕日前後に読まれる福音書は、イエスの誕生にまつわるものが選ばれている。
わたしは聖書に、参加した礼拝で読まれた個所の年月日を記している。
マタイ一・十八以下や、ヨハネ一・一以下の枠外など、毎年同じ日付を記すたびに、一年の経過に気づかされる。
また、キリスト降誕を告げ知らせる個所には、預言者イザヤの言葉や、ダビデの町という表現があり、旧約聖書がこの時代の人々の中に根付いていることを改めて知らされる。
新約聖書が根付いているはずの今、わたしたちにもたらされるものは何だろうか。
そんな思いにふけってきた「荒野」から、今月で去ることになった。
またいつか、どこかで「声」を届ける日まで。
※ 三年間、執筆・ご協力いただいた教役者、信徒のみなさま、改めましてありがとうございました。
次号からは新広報部が担当いたします。
今後とも教区報「はばたく」をよろしくお願いいたします。
(前広報部長 モーセ 酒井 健) |