教区報「はばたく」に掲載のコラム

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最新メッセージ

2020年10月号

 九月に台風が続けて来ました。
各地で被害に遭われた方のことをお祈りしています。

 台風が過ぎると、勤務先の園児たちが登園途中に拾った枝や葉、松ぼっくり等を嬉しそうに見せてくれます。
一緒に小さなコーナーを作り飾りました。
次に登園してきた子も持って来たものをそのコーナーに置いたり、他の子も「これ、ここがおもしろい」と手に取って観察したりしていました。
自分も見つけたい!と園庭で落ち葉を拾う子もいます。

 大人が生活の中で簡単に見過ごすものでも、子どもたちには不思議さと驚きが詰まった宝物です(特に神様の創られた自然物)。
まだ緑色の松ぼっくりは「ここ、べたべたする」との子どもの発見に、どこからべたべたが出てくるか私もじっくり観察したくなりました。
知った気になって感動しないでいる自分を省みる毎日です。

 天の国はこのような者たちのものであると言われたイエス様が「生活の中に一つひとつ感動 と喜びがあるよ。
それを味わって過ごすことを神様は喜ばれるよ。」と応援してくれているように感じます。

(ヒルダ 浜生 牧恵)


2020年9月号

 主イエス変容の日の特祷の中に、「揺れ動くこの世から救い」というフレーズがある。
現行の祈祷書は一九九〇年代初頭発行なので、ここ三十年ほど用いられているフレーズである。
それまで用いられてきた一九五九年版には、このフレーズはない。

文語体から口語体への改訂の際に「この世の心づかいを離れて」というものから変更されている。

 教会生活は、時代に合わせて変わっていくものである。

ひるがえって考えてみると、一九九〇年前後、世界情勢は大きく変化した。
そのような時期に、「揺れ動く~」というフレーズが用いられたのは偶然ではあるまい。

 しかし、今年ほど身に染みて「揺れ動くこの世」を実感した年もそうそうないだろう。
目に見えないものへの不安。
聖書を読んでも、それを払拭することはできない。
しかしわたしたちは、救いを求めることができる存在を知っている。

 最高の賜物を、
今こそ感じたい

(モーセ 酒井 健)

2020年8月号

 四月と五月、福岡聖パウロ教会では教役者と家族で主日礼拝を守ってきた。
礼拝に出席できない信徒へメッセージを伝えるため、主日ごとのメッセージを文書で郵送すると共に、インターネットを利用して動画でもメッセージを発信した。
すると、病気のため長い間、礼拝に出席出来ていなかった方から「ずっと礼拝に行けなかったので、久しぶりに先生の説教を聞けて嬉しい」との感想をいただいた。

インターネットを使った説教動画配信は新型コロナウイルス感染症への対応として行ったことだったが、実はずっと前からそれを必要としている人がいたということに気づかされた時だった。

 六月に入り、公開での礼拝が再開して以降も毎週土曜の夜に主日の福音書についてのメッセージを録画し、YouTube で公開している。
自分にとっての動画公開の一番の効用は、自分が話す姿を後から見返すようになったこと。
自分が話す姿を視聴し、自分と対話する時となっている。
思わぬ恵みが与えられている。

(司祭 バルナバ 牛島幹夫)

2020年7月号

 私が所属する福岡聖パウロ教会は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、四・五月の礼拝を中止しました。
学生の頃、部活や受験を理由に教会に行かない時期はありましたが、行けないのは初めてのことでした。

私は理学療法士として働いており、この状況の中、以前勤めていた病院での出来事を思い出しました。
ある日患者さんの病室へ行くと「リハビリには行かんよ。」と一言。
その方は腰痛を理由にリハビリに行きたくないと言うことはあったのですが、その日の理由は「神父様が来るから。」でした。
その時刻まではまだ一時間ほどあったのですが、入院中という教会に行けない状況での神父様の訪問が待ち遠しく、リハビリどころではなかったようです。

 今回の礼拝中止期間中は、牛島司祭からのお手紙とフェイスブックでの礼拝やメッセージの配信がありました。
教会に行けなくても神様はそばにいてくださる。
分かってはいるのですが、手紙や配信によって、改めて教会や神様を近くに感じることができました。
(久保 希世子)

2020年6月号

 新型コロナウイルス感染症は、私たちの日常に大きな影響を及ぼしています。
全世界的に人々の行動が制限されているのは、第二次世界大戦以来のことともいいます。

 そんななか、いま私たちができることを考えてみました。

 ひとつは、祈ること。
医療従事者、私たちの生活を維持するために働く人々、病気の人々、亡くなられた人々の魂とその家族のために祈るのはもちろん、孤独に直面する人々が社会と再びつながるように、私たちの社会がひとつになるように、祈ることが大切と思います。

 いまひとつは、神さまが聖書を通して語られるみ言葉を聞くこと。
私たちが直面している試練は、必ず乗り越えることができると、聖書は語っています。

神さまは私たちを励まし、力を与えてくださっています。
神さまの教えを行動に移すことも大事です。
神さまは隣人を愛するように教えられますが、感染症を他者に感染させないための行動は、隣人を愛する行動そのものです。

 私たちの信仰生活が、新型コロナウイルス感染症の収束につながることを願っています。

(パウロ 下村仁士 )

2020年5月号

 新型コロナウイルスの脅威が拡大を続けている。
り患した方々の回復と、亡くなった人々の魂の平安を祈るとともに、対策にあたる医療従事者らに敬意を表したい。

 私たちは、見えないものに対して不安感を持つ。
それを少しでも解消したくて、何かしらの情報を加えて可視化したくなる。
様々な情報と共にデマも加わり、不安が助長される。疑う。恐れる。心が荒む。
咳をするだけで相手を攻撃してしまうほど、人間は弱く、脆い。
この心情は、震災以降放射能と向き合い生活する地域の人々のそれに重なってくる。
色も、臭いもない恐怖の中で生活せざるを得ない人々の、押しつぶされそうな心の様をほんの少しではあるが共有した気がした。

 見えない神を信じる私たちは、見えない恐怖にどう対峙すれば良いのだろうか。
この病原体の正体や治療方法は刻々と解き明かされていくはずだ。
私たちは、日々更新される情報をもとに、日常生活の中で恐れつつも正確な判断をしていきたい。

 今こそ祈ろう。
(ヴェロニカ 牛島 和美)

2020年4月号

 二月のレクイエムに私は参加できませんでしたが、説教者の小林司祭が「昭和四十七年の教区報」を引用され、その教区報が巡り巡って私の手元にやって来ました。
説教の内容は、廣石司祭がされていた「信徒研修と求道者のための通信教育」を基に私たちが出来ること、するべきことのお話だったとお聞きしました。

 その教区報のページをめくる度、懐かしいお名前や今九州教区を支えておられる方の、若い頃(あら、失礼でしょうか)の記事をたくさん見つけ、楽しく読ませていただきました。

多くの方々の思いと祈りと共に、教区の歩みが進んできたことを改めて感じます。
また、たくさんの行事の報告と案内が載っており、当時のスタッフの方々のご苦労に頭が下がります。

 今の教区報も五十年後、その時九州教区に繫がっている人たちと勇気や希望を分かち合える、そんな存在になれるのかと思うとわくわくしてきました。
信仰の先輩方からいただいているものをもう一度見つめ直し、味わって自分のものとし、次の世代の方々に手渡して行きたいと思います。

(ヒルダ 浜生 牧恵)

2020年3月号

 春は出会いの季節である。でもその前に、別れがあったりする。
出会いの数だけ別れがあることが辛かった。
新しく出会った人とも、いつか別れる時が来るんだろうな。
だったら出会いはもういらない。
深く付き合うことも辛い。そんな時期があった。

聖書の中で、もっとも辛い別れは、キリストの磔刑である。
救世主、師と仰いだ方が、理不尽で残酷な目に遭う場面は、二千年の時を経た私たちにもショックである。
しかしキリストはそこから復活された。
二度と会えないと思った存在が、永遠にそばにいてくれる特別な存在になったのだ。
そして私たちは、永遠の別れなど、本当はないということを教えられたのかもしれない。

毎日のように会う人たちは大切だ。
でも、一旦お別れしていてなかなか会えない人との邂逅は、また特別である。
出会いは始まり。そして、別れも特別な出会いの始まりなのかもしれない。

春は出会いの季節である。そして、永遠の出会いへの始まりの季節である。
(モーセ 酒井健)

※今年の本欄は広報部員が月ごとに交代で担当します。

2020年2月号

 クリスマス、主イエス命名の日と年末年始に礼拝が続く中で、普段の主日礼拝では会えない人に多く出会うことができた。

新たな出会い、久しぶりの再会。それがどのようなものであれ、教会生活の中で出会いが与えられることは大きな喜びである。

教会で起こる出会いは、キリストを媒介としたもの。
初めて出会う人であっても、キリストによってつながることができるのが、教会における恵みである。
与えられた出会いをどれだけ大切にしていくことができるか。
それが、伝道の力となるのだと思う。

さて、この2月号から、新しい広報部が3年の任期で教区報の編集を担当することになった。
「はばたく」の紙面がキリストを媒介とした出会いの場となるよう、編集部一同で頑張っていきたい。どうぞ、よろしくお願いいたします。

(広報部長、司祭牛島幹夫)

※今年の本欄は広報部員が月ごとに交代で担当します。

2020年1月号

 医療の学会での講演で時折、「think globally, act locally」(地球規模で考え、足元で行動せよ)という言葉に出会う。
誰が言い出した言葉なのかはわからなかったが、一九六〇─七〇年代の市民活動で普及し、最近では環境問題を語るうえで使われることが多いようだ。
小児科医である私が働く上で解釈すると、「視野を広く医学の知識を蓄えつつ、目の前の子供をケアする」というところだろうか。
半年前に、少子高齢化が顕著な地方の病院の小さな部署に転勤したこともあるが、日々の生活に追われているとついつい視野が狭くなっていることを実感し、自戒を込めて思い起こす言葉である。
つい先日、襲撃され亡くなった、アフガニスタンで活動していた中村哲氏もこのメッセージを伝えていたそうだ。
マタイによる福音書でも「はっきり言っておく。私の兄弟(姉妹)であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」とある。
聖書を読み考えることはthink groballyになるのではと思う。
(鶴澤礼実)

2019年12月号

 天使には様々のタイプがある。
主なものではセラフィムとケルビム、大天使ミカエル、癒しの天使ラファエル、受胎告知に登場するガブリエル、人間に最も近いというエンジェル等々…。

 さて天使にはもともと性別はないのだが幼少期に見たクリスマスの聖劇では、天使はだいたい女の子が多かったし、「白衣の天使」とか「天使の歌声」等と表現される。
特に受胎告知で登場するガブリエルはダ・ヴィンチやフラ・アンジェリコ等の絵の印象がつよく、若い女性という感覚が何となく染みついている。
しかしもともと西欧ではガブリエルは男性名として使われている位、男性性に位置づけられる。

 性の役割や年齢についてのイメージは成長プロセスの学習で感覚的に染みついてしまうが、色々な経験から性役割についての偏った既成概念が再び修正される。

 今やさらに性、年齢については多様性、個性が尊重される社会である。
特に発達期のイメージ形成の中で、差異感についての認識を正しく受けとめる機会が必要だと思う。
(小笠原嘉祐)

2019年11月号

 今まで三年の間、三ヶ月に一度この欄で皆様のお目に留まる機会をいただいたことを感謝申し上げたい。

 改めてこれまでの原稿を読み直すと、この間に交わりが深まったり新たな出会いがあったりと、自分自身を取り囲む恵みが豊かであったことを思わされる。
特に、毎年訪ねる東北で出会い、繋がり続けている人との縁は、私にとって欠くことのできない、「私」を形成するうえで大切な部分となっていることを改めて実感する。

 三年前この欄を依頼された際、「私は東北のことを伝え続けたい。同じことしか書かないが、それでも良ければ」と引き受けたが、今回を含む十二回のうち半数以上を東北について書かせていただいた。
毎年同じ場所に行き、見続け、会い続ける中で感じること、東北の今を伝え続けたいという思いを、この欄で形にさせていただけたことを改めて感謝したい。

 私のこの「伝える」という手段は、この欄以外でこれからも続けていく。
折あらば、またどこかでお目に、お耳にかかることがあると幸いである。

 この号がお手元に届く頃、間近に迫った今年の東北への旅に心奪われていることだろう。
(牛島和美)

2019年10月号

 毎回悩むのが「私が診たことのない病気」をどうやって伝えるかということである。

主治医として、家族と悩みながら治療した病気については伝えたいことが山積みで話しやすい。
一方、治療したことのない病気についてはどうしても表面的になり、それをどう克服するかが大きな課題だった。
先月、ラジオで教育学者の齋藤孝氏が「意味と感情はセットで、自分の感情が薄くなると言葉は伝わりにくくなる」と語っていたが、ああ、こういうことなのだなあと思った。
教会では聖書の言葉を「伝える」が、まさにみ言葉を私たちの血と肉にして、意味だけでなく経験や感情、気持ちで伝えることが大事なのだろう。
(鶴澤礼実)

2019年9月号

 キリスト教についての対談の中に、興味ある記事があった。

神学大全をはじめとして極めて膨大な著作を書いたトマス・アクィナスという神学者についてである。
この人の原稿の文字は「読めない文字」と呼ばれている位の悪筆であった。
トマスは読むよりも早いスピード(!)で著作を書いていたという。
自分の思考の展開の速さに追いつくために、とにかく手を動かして執筆したために「読めない文字」と呼ばれる原稿になったらしい。

 ところが、その著作の結論に近づいたところで急に書くのをやめて著作を放棄した。
なぜなら「神に関することに比べると、私がこれまで書いたものはわらくずのようなものだ」と…。
信仰の本質は言葉を超えたところにあるということを言ってるのだろう。
今やネット社会の中で言葉の表現を書き言葉にすることが増えている。
思いのままに表現しているはずなのだが、すべてを語りつくすことは幻想でしかないし、読まれることでの単純な評価が気にされる。
言語表現は軽さを増している。
ますます文字で表現されることが本質には至らなくなるのではないだろうか?

(小笠原嘉祐)

2019年8月号

 私の地元山口県では、広島の原爆の日にサイレンが鳴り、夏休み中の学校もこの日は平和学習の登校日に充てられていた。

原爆資料館にも何度か行き、被爆者や破壊された街を写した写真が掲載された関連書籍にも手を伸ばし、私は広島の原爆を通して戦争による「痛み」を感じようとした。

 歌を歌うようになった私は、その曲の歌詞が表す風景を実際に見るように努めた。
風や色を感じ、想像した。きれいな風景を歌った歌もあれば、悲しみや苦しみを歌った歌もある。
そのような時にも、必要なのは「痛み」を想像する力だった。

 最近の若者は、想像する力が乏しいという。
その一因には、リアルを見せる機会を与えなくなってしまったことも関係しているのではないだろうか。
負の歴史には悲惨な事柄が必ずあるのに、悲惨だからとフィルターをかけたり、負の部分を欠落させてはいないだろうか。
人間がギラギラとした命を謳歌する一方、愚かさが生み出した暗黒の部分もあることを見せないで、想像力は養われない。

 令和になって初めての「終戦の日」がやってくる。想像しよう。
輝く命が過ちによって多数失われる「痛み」を。
(牛島 和美)

2019年7月号

 貧乏ゆすり

一般に、人前では「貧相だ」と言って嫌われる「貧乏ゆすり」。
しかし数年前、脚のむくみとか冷え性に効果があると指摘されて、市民権を得てきました。

 私は、十年以上前から、くせになるほどの貧乏ゆすりは、変形性股関節症の治療に役立つ、と推奨してきました。
近年、NHKの「ためしてガッテン」にこの貧乏ゆすりが取り上げられ、私も出演しましたが、放送後、いろいろの反応がありました。
「そんな方法があったのですね」という言葉や、同時にNHKともあろう公共放送が、どうして科学的根拠もない治療法を取り上げたのか、などといった色々な反応がありました。

 放送の中で治療のもとになった根拠は示さなかったのですが、この治療法の発端になっているのは、肋骨両端の胸郭の関節には関節症は起こらない、という医学的な事実です。
どうしてでしょうか? 世の中、胸が痛くて息のできない人が出てきたら大変です。
創造主は胸郭の関節には関節症が起こらないようにプログラムされました。
そのプログラムが貧乏ゆすりです。
関節を小刻みに動かす、すなわち貧乏ゆすりをすると軟骨は劣化しない、という医学的事象を、創造主は呼吸機能を通して教えてくださっているのです。
(遺稿 井上 明生 )

2019年6月号

 お酒もタバコも基本的には依存物質であり、病的依存は「依存症」として精神的治療の対象となる。
疾病分類としては「物質関連障害」として位置づけられている。
タバコについては今や有害物質として生活環境の中で禁煙対策を含め、徹底されつつあるが、お酒は運転の際にきびしくなっても禁酒とはならない。

 さてお酒の歴史、ことにワインについては極めて古い歴史がある。
アルメニアには六千年前のワイナリー跡が出土しているということで、ワインの発祥の地はアルメニアを含む南コーカサスといわれている。
アルメニアといえばアララト山そしてノアの箱舟となる。
そこで創世記第九章には「ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた」とある。
あのノアでさえ酒で態度が豹変したのである。
その他にもワインにかかわるきわどい話が旧約聖書には記されている。
要するに飲酒は適量を守るということが必要だということである。
(小笠原 嘉祐)

2019年5月号

 「令和」という新元号が発表された今日、新年度がスタートした。
町では、入社式の帰りであろうか、着慣れないスーツ姿の若者が、期待と不安の混ざったような表情で歩いている。
そう見受けられるのは、自分自身も新しい生活が始まった同じ境遇だからであろうか。

 転居の準備には断捨離が欠かせない。
家財の一つ一つに思い出を重ねつつ、処分する。
喪失感と言えば大袈裟に聞こえるかもしれないが、実際にうつ病発症の要因には「転居」や「新しい部署への異動」が大きな割合を占める。

 私の場合は、転居までにおよそ二ヶ月の準備期間があったが、災害被災者の場合そうはいかない。

取るものもとりあえず我が家を離れざるを得なくなる。
家族の一員である動物や家畜を置いていかなくてはならない苦しみや、流失や焼失で全てを失った悲しみ、元の生活に戻れない失望感。
被災から時間が経っても癒されない苦しみの中に、今も置き去りにされている人がいる。

 うつむき加減だった私の頭上に、気が付けば満開の桜。
空には雲一つない。
この空が繋がる東北へ思いを馳せる。
友よ、あなたもこの空を見上げていてほしい。
(牛島和美)

2019年4月号

 天国の特別な子ども
重症心身障害児父母の会の機関誌にエドナ・マシミラ作のタイトル名の詩が出ていました。

 「会議が開かれました。地球からはるか遠くで」という書き出しで始まります。

 天国で天使たちが会議を開いて、次に生まれる子どもはどの両親に託そうか、という話合いをしています。

 次に生まれる子どもは、重度の障害を持っているから、だれに託するのがいいだろう。
そうだ、あの二人(両親)なら愛情を持って育ててくれるだろう。
そしてあの二人なら、自分たちにこの子どもが与えられた意味(神の愛)を感じ取り、自分たちに求められている役割に気付き、より信仰を強めてくれるだろう、といったやり取りが続きます。

 この詩を読んで、しばらく考え込みました。
私たちは何か災難にあったとき、苦しいときに祈りを捧げます。
しかしその時、神の助けを祈る前に、その災難、苦しみはなぜ与えられたのだろう、と考えるだろうか。
神は無意味なことはされない、という神の恩寵を考えたとき、祈りの内容は変わるかもしれません。
日ごろの思い悩みを乗り越えた重度障害児の両親に接したとき、天使たちの会議が実を結んだのであろうか、とふと思うことがあります。
(井上明生 遺稿)

2019年3月号

 初期キリスト教が興隆した都市としての典型がローマ第四の都市アンティオキアである。
使徒言行録によれば、弟子たちがはじめてキリスト者(クリスチャン)と呼ばれた。
マタイによる福音書が編纂されたところといわれ、何よりもバルナバ、パウロの伝道活動は有名である。
ところがアンティオキアはローマが誇るような文化都市ではない。
R・スタークという宗教学者がこの都市の有様を再現している。
もともと城塞都市なので拡大できぬ都市構造の中にすし詰めの人間が暮し、公共施設を除けば住居・道路は極端に狭く、いつも窒息しそうに煙がただよい、上下水道等の衛生設備は皆無に近く、想像を絶する不潔さがあった。
交通の要衝ではあるので他民族が対立しながら存在する無秩序と混乱、おまけにしばしば天災に見舞われた。
しかしこのカオス的状況だったからこそ、キリスト教の福音が沁み透っていったといわれる。
今の時代に通じる本質的なチャリティがそこにある。
(小笠原嘉祐)

2019年2月号

 昨年十一月、毎年恒例の東北訪問。
一週間の旅程の中、必ず訪ねる家や場所。
今回も各地で懐かしい人に会えた。

 年々高台に新しい町や道路が出来る地域もあれば、フェンスに閉ざされ荒れるにまかせた住宅が軒を連ねる地域もある。
とにかく前に進んでいこうと笑顔で働く知人がいる一方、長い心の苦しみから体調を崩している友もいる。
物的被害もさることながら、心的被害は他人の目には見えないままくすぶり続けている。

 現地で見たものや感じたことは、やはり折に触れて伝えていきたい。
その思いから、十二月に対馬市内でコンサートを企画した。
報道される機会が少なくなった今、東北への意識は低下しているのが現状だ。
だからこそ、伝えなければ。
それが、東北の今を見てきた自分の使命だという思いがある。

 毎年東北を訪ねるきっかけとなった仮設住宅でのコンサート。
そのエピソード、その時歌った歌、被災者が選曲した理由など話しながらのひと時。
語れば涙も流れてくる。
帰り際、観客の一人が「お母さんのようですね」と声をかけてくれた。
私の東北愛もそこまで来たかと自分でも嬉しくて、また涙。
(牛島和美)

2019年1月号

 本庶佑(ほんじょたすく)先生にノーベル賞
昨年度ノーベル医学生理学賞は京都大学の本庶佑先生に授与されました。
日本人二十六人目、医学生理学賞では五人目です。

 受賞の対象になったガンに対する免疫療法の研究成果は発想の転換から生まれました。
一般にガンの免疫療法と聞けば、多くの人はいかにして免疫力を高めるか、と考えると思うのですが、本庶先生は、免疫力を高めようとしても、それに抵抗する物質があるのでは?と考えました。
つまり車を運転するとき、サイドブレーキを外さずにアクセルを踏んでいる状態、というわけです。

 「押してダメなら引いてみな」という言葉がありますが、世の中、ときに発想の転換が必要なことがあります。

 私たちが常日頃利用する鉄道の自動改札、最初の試作品は、一分間に六十人を通過させたそうですが、混雑回避のためには九十人を通過させる必要がありました。
そこでどうしたか。チケットを挿入したら開くのではなく、間違ったチケットが挿入されたら閉じるようにして目的に達したそうです。

まったく逆の発想です。 このようにして生まれた薬が「オプジーボ」です。
創造主は本庶先生を通して、人類の幸福のためのプログラムを少し明らかにしてくださいました。
(井上明生)

 

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