教区報「はばたく」に掲載のコラム

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最新メッセージ

2024年2月号

 私2024年を迎えたばかりで起きた能登半島の大地震。
そのニュースを聞きながら、この最後の「荒野の声」の原稿を書いている。
国内外で起こり続ける惨事や温暖化等の深刻な問題に、「希望」はあるのか、と不安にならずにはいられない。

 昨年最後に手にした本が『夜明けを待つ』。
著者は、生と死をテーマに書き続けたノンフィクション作家の佐々涼子さん。
彼女自身が「希少がん」を患い、余命を宣告される。
希(まれ)ながんだから「希少がん」と呼ばれるのだが、「希少」を「希望が少ない」のではなく、限りある人生でも「希望もある」と前向きに捉えている。

 人は、自然災害に限らず、生きていれば大なり小なりいろいろな惨事に出会う。
佐々さんのように、「絶望」から「希望」への捉え直しができるかが、生きる力にもなるのだろう。
余命宣告ほどではないにしても、絶望する体験に遭遇したことがあった。
そんな時、「わたしは弱い時にこそ強い」という聖句に励まされたことを思い出した。

(菅 孝子・大分)


2024年1月号

 私はよく散歩する。
その日の気分によって行く方向を決めて歩き出す。
空・雲・川・鳥・草花等目にするものみな麗しい。

その美しい自然と人々の営みを観察しながらいつも想像するのは今、あのマンションがこの橋が爆撃されたら忽ち自分も巻き込まれてしまうだろうということだ。
今世界で起こっている戦争や紛争は実に地獄絵のような恐ろしい状況である。
私達は一日でも早い終結を日々祈っている。
しかし一時的に停戦して人質交換があっても何ら解決には至っていない。
新年に当たり私達は絶望をどう立て直し、何を目標に生きていけばいいのか。

イザヤ書43:19(聖書協会共同訳2018年度版)にはこうある。
「見よ、私は新しいことを行う。今やそれは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。確かに、私は荒れ野に道を荒れ地に川を置く。」
辛いことにうちひしがれていないで、新しいことを力強く実行される神を信じて起(た)ち上がろう。

「初(はつ)御空(みそら)神のみ技を信じ起(た)つ」

(平岡 加久子 ・熊本)

2023年12月号

 ある人から、「あなたは目が泳いでいる」と指摘されたことがあります。
私には、指摘の背景に、弱いという意味がこめられ、それが悪いことなのだというように聞こえました。

昔、アメリカでオバマ大統領が就任された頃でなかったかと思いますが、「マッチョの時代の終焉」という評論に接した記憶があります。
マッチョ、つまり力自慢が支配する時代の終焉という興味深いタイトルの評論でした。
マッチョという言葉からは「強圧的」「独断的」「エリート主義的」といった響きを読み取れました。
より平等で、民主的な時代が来る。
しかし、有色人初の大統領の次は、トランプさんでした。
今世界はマッチョの時代へ、マッチョの暴力が猛威を振るう時代へと逆進しているように思います。
聖書では「わたしの恵みの力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Ⅰコリ12:9)と書かれています。
弱さが神様の力を通して、愛や信仰や希望につながるのかもしれません。
希望へと。目の泳ぐ私も少しは過ごしやすくなるかも。

2023年11月号

 母校の広報誌に「そうだ!日曜日には教会へ行ってみよう」というコラムがある。
母校の教職員がキリスト教との出会いを綴っている。

 私の場合、受洗は幼稚園入園頃だったと思うが、父方の祖父母が自室を教会にして礼拝を守っていたので、そこがキリスト教との出会いのルーツかなと考えている。
3代目だが、クリスチャン家庭といえども、神との「出会い」をどう受け止めているか、人それぞれに異なっているのだろう。
私は、日曜学校、教会系の寮生活、ミッション系大学を経て、結婚後も教会の近くで生活している。キリスト教との出会いの環境には恵まれてきたと思う。

 前述の広報誌に、キリスト教との「出会いの環境づくり」が大きな使命だとあった。
九州教区では、個々の教会や教区運営の深刻な状況にどう向き合うかが問われている。
その大きな問題に対して、私は、一人ひとりができる役割に立ち返ることが大切かな、と思っている。「出会いの環境づくり」に対して、それぞれができることをやり続ける。
そこに希望があると信じたい。

菅 孝子(大分聖公会)

2023年10月号

 「間違ってる?」この言葉は近所に住むY君の口癖である。
知的障害のある彼は、40代だろうと思われるがいつも青年の面影を持つ。
作業所に通う帰路のバスでよく会うが、にこにこと愛嬌よく話しかけてくる。
いろんな世間話をするのだが、一言言うと必ず「間違ってる?」と確認する。
「いや間違ってないよ。」と答えると安心したように次の話に移る。
家族の誕生日をよく覚えていて私の誕生日が父親と1日違いなのも覚えていてくれて嬉しくなる。
随分前だが、彼は初めてのボーナスで両親を京都旅行に招待した。
旅費を全額賄まかなえたかは定かではないが、その心意気に感動したことを覚えている。
自分は間違ったことをしたり言ったりしていないか常に確認して生活する姿。その謙虚さが我々にあるのだろうか、「神様、私は間違っていませんか。」と常にお尋ねしているだろうか。
彼と会った後は爽やかな清々すがすがしさを感じる。
「清秋(せいしゅう)や 汚けがれなき人 包み込む」
(平岡 加久子 ・熊本)

2023年9月号

 「生命第一」という言葉がある。しかし、私たちは命を奪い、命を食べて生きている。
世界の戦場では殺人が日常となり、トルコとシリアでは何十万人もが地震で命を奪われている。
人々は、何もできない無力を思い知る。
卑怯にも、自分の生命の無事に安堵さえしている自分がいる様な気もする。
わが国では、「生命第一」のおかげで高度な医療インフラが整備されてきたものの、社会とのつながりもなくひとり彷徨い、介護や認知障害などに悩まされている高齢者が少なくない。
医療や介護や年金の負担はますます大きくなる。
高度な医療は病気を治しうるが、老化や老衰は直せない。
生命第一を「自分の生命第一」と理解した場合には、他の生命との競合や争いが避けられない。
自分(達)だけの閉じられた安全安心な空間を創り、そこに閉じこもることが「生命第一」ではないだろう。
覚悟を伴い、人間以外の見えないような小さな命までも含めた開かれた共生の社会が生命第一の社会ではないかと思いたい。

(早瀬隆司・長崎)

2023年8月号

 23歳で早世した瀧廉太郎の没後120周年。
最期を過ごした大分での様子を話して欲しいと。
ドイツ留学直前に東京の博愛教会(後の聖愛教会)で洗礼・堅信式を受ける。その直後、あの有名な『荒城の月』を作曲。
留学も病気のため帰国。
大分では、聖公会のブリベ師を訪ね、お話やご馳走を楽しみにしていたと。
大事にしていた廉太郎の十字架の飾りの付いたネクタイピンを運動会で失くしたことを悔やむ妹。
そして、遺稿となった『憾うらみ』というピアノ曲は「心残り」という意味。最後は十字架を暗示するように右手と左手が交差する。
キリスト教との出会いが音楽と人生に与えた影響は計り知れない。
彼の音楽をもっと聴きたかった!
(菅孝子・大分)

2023年7月号

 朝ドラの「らんまん」が話題になっている。
草花に関心の薄かった人も散歩しながら「この花の名前は何だろう。」と牧野富太郎風に考えてスマホで検索したりフェイスブックに投稿したりする人が増えたと聞く。
花の癒しのパワーは思わぬ所で発散したりする。
小学校で廊下を走る児童が絶えなかったが、廊下に花を飾ったら走る児童が減少したという事例もあった。
私は花を見るとき神の愛を感じる。そして神のメッセージが込められていると思う。
名もなき野の花の素晴らしさを神はマタイ12章22節から32節で「野の花がどのように育つのかよく学びなさい。…しかし言っておく『栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった』と。」とはいわ信仰薄き私はどはいつも「何を食べようか」「何を着ようか」と思い煩っている。
鳥や花たちは働きもせず紡ぎもしないのに神は美しく飾って下さる。
はい、「思い煩わず神の国と神の義を求めなさい。」ということですね。少しでもその義に近づけますように。
『ソロモンの栄華を凌ぐ草の花』
(平岡 加久子・熊本)

2023年6月号

 以前のカンタベリー大主教に、勇気を振り絞って質問をしてみたことがあります。
「私の生家には仏壇と神棚があり、そこにはいつも私たちを見ている神仏がおられるように思って育ちました。
仏教にも、如来、ブッダ、霊魂という三位に似た構造があります。
キリスト教は唯一神だというけれども、仏教などにも同じような魅力を感じます。
このような信仰で許されるでしょうか?」この世の中では、「我々の国が一番だ」から「俺は環境に優しい」まで、どこかで線引きをして他者と自分(達)を差異化することが常です。
私は「差異」よりも「一致」の重要性についても含めて、主教のお考えを聞いてみたかったのです。
主教は、それでいいです、ただ一つ覚えておいてほしいのは、イエス様が私たちのために十字架にかけられたことです、という趣旨のお言葉をくださいました。
一致について否定はなさらず、忘れてはならない違いを教えてくださいました。
向こう見ずな私は、納得し、十字架に対する感謝と認識を深めねばならないと深く反省しました。

(早瀬 隆司・長崎)

2023年5月号

 映画『対峙(たいじ)』を観た。
米国の高校での銃乱射事件の加害者側と被害者側の親が6年後に面会する。
映画のほとんどは4人だけの対話。
対話を可能にさせる条件の一つは、双方が対等な立場であるという意識が必要だといわれている。
双方の子どもたちが亡くなっているので、立場が違えども、4人は被害者という意味では対等だ。
双方がそれぞれの思いを正直に話し、そしてそれを黙って聴き合う。
時には感情をあらわにしながらも、双方は言葉を選び、双方を気遣い合う場面もあった。

原題は『Mass』。
「キリスト教のミサ」と「大量(殺人)」という意味を兼ねているのだろう。
映画では聖公会の教会の集会室が使われ、テーブル奥の十字架のキリスト像が、静かに4人の対話を見守っているように思えた。
映画の最後に流れたのは『聖歌集』の493番「愛のわざは」。
教会入り口にさりげなくあった「God with us」という言葉も印象に残った。
対立する世界情勢の中を生きる今の私たちに、「対話の可能性」を教えてくれる作品でもあった。
(菅 孝子・大分)

2023年4月号

 空前の俳句ブームである。
私も2年前から詠み始めたが、俳句は五・七・五の17音の詩であるといわれる。
説明や報告ではなく読者に情景を思い浮かばせ詩情を感じてもらう。
聖公会の祈祷書の中にある詩編は韻を踏(ふ)み美しいものが多いが、語彙の含む背景を感じなくてはいけないのかもしれない。
聖霊とは何か、はっきり説明できないもの、聖なるもの、心に響くもの、その聖霊を詩編の中に感じなくてはいけないのではと思う。
Ⅱコリ4:18「わたしたちは目にみえるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」とあるが、俳句でも言葉で言い表せないものこそ大切なのではないか。
サン=テグジュペリ作「星の王子さま」の中でキツネは言う、「心で見なくちゃものごとは見えないってことさ。
かんじんなことは目に見えないんだよ。」と。
そして王子さまは言う、「砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているからだよ。」と。

 「碧(あお)い星砂漠の底の泉照らす」砂漠の底に泉を見つける気持ちで日々暮らしたいものである。
平岡 加久子(熊本)

2023年3月号

 久しぶりに高校時代の旧友たち2人と議論をすることとなった。
かっての美少年たちも、今や経験豊富なお歴々である。
石油依存の文明の時代から新しい文明の時代への転換が始まっているかどうかで意見が分かれた。
文明の転換は壮大な人間活動に依存しており、なかなか簡単ではないであろう。
それぞれの地域にある資源を地域の恵みとして活用して公平な自律分散社会に向かう必要があるという私の主張に対して、彼らは「そうはならない」と言う。
私の発言の中には、理想を求めたある価値観が入っているのに対して、彼らは現実認識で対抗する。
理想の社会を、神の国を思い描いてともに歩んでいきたいと思うのだが、クリスチャンではない彼らにイエス様の真を持ち出しても通じそうには思えない。
教会の外に出て、日本の社会の中で、神様の真をどのようにして伝えれば良いのであろうか?
一歩踏み出せなかった自分には確信(信仰)が足りないのではないかと自問自答である。

早瀬隆司 (長崎)

2023年2月号

 タイトルに“荒野”という言葉があり、“荒野とは神と出会う場所”だという司祭の説明を思い出した。
「自分の経験の中での神との出会い」について書かなくてならないとは、なんと荷が重いこと!

 初めての執筆。軽いテーマで書かせてください。
我が家に放置されていたグランドピアノを教会に引き取ってもらったのが3年以上前。
コロナ禍と重なり、2022年になって、多目的にピアノが使われるようになった。
先日、幼稚園の卒園児で東京交響楽団のコンサートマスターの水谷晃さんの演奏が園児向けに開かれた。
当教会のオルガニストがピアノ伴奏を担当。リハーサルを見学した。神様からの賜物のような演奏。
園児の心に響いただろう。

教会を地域に身近に感じてもらうために、音楽の果たす役割は大きいと思う。
他の教会の知人たちから、「教派を超えた音楽活動に地域の人にも参加してもらおう」という企画もある。
コンサートなどで初めて教会に来られた方たちと、どう関わっていくかも大きな課題だ。
(ナンシー 菅 孝子)

2023年1月号

 今、降臨節の中でこの文章を書いている。
降誕日前後に読まれる福音書は、イエスの誕生にまつわるものが選ばれている。
わたしは聖書に、参加した礼拝で読まれた個所の年月日を記している。
マタイ一・十八以下や、ヨハネ一・一以下の枠外など、毎年同じ日付を記すたびに、一年の経過に気づかされる。

 また、キリスト降誕を告げ知らせる個所には、預言者イザヤの言葉や、ダビデの町という表現があり、旧約聖書がこの時代の人々の中に根付いていることを改めて知らされる。
新約聖書が根付いているはずの今、わたしたちにもたらされるものは何だろうか。

 そんな思いにふけってきた「荒野」から、今月で去ることになった。
またいつか、どこかで「声」を届ける日まで。

※ 三年間、執筆・ご協力いただいた教役者、信徒のみなさま、改めましてありがとうございました。
次号からは新広報部が担当いたします。
今後とも教区報「はばたく」をよろしくお願いいたします。

(前広報部長 モーセ 酒井 健)

 

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