最新メッセージ |
2023年6月号
以前のカンタベリー大主教に、勇気を振り絞って質問をしてみたことがあります。
「私の生家には仏壇と神棚があり、そこにはいつも私たちを見ている神仏がおられるように思って育ちました。
仏教にも、如来、ブッダ、霊魂という三位に似た構造があります。
キリスト教は唯一神だというけれども、仏教などにも同じような魅力を感じます。
このような信仰で許されるでしょうか?」この世の中では、「我々の国が一番だ」から「俺は環境に優しい」まで、どこかで線引きをして他者と自分(達)を差異化することが常です。
私は「差異」よりも「一致」の重要性についても含めて、主教のお考えを聞いてみたかったのです。
主教は、それでいいです、ただ一つ覚えておいてほしいのは、イエス様が私たちのために十字架にかけられたことです、という趣旨のお言葉をくださいました。
一致について否定はなさらず、忘れてはならない違いを教えてくださいました。
向こう見ずな私は、納得し、十字架に対する感謝と認識を深めねばならないと深く反省しました。
(早瀬 隆司・長崎)
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2023年5月号
映画『対峙(たいじ)』を観た。
米国の高校での銃乱射事件の加害者側と被害者側の親が6年後に面会する。
映画のほとんどは4人だけの対話。
対話を可能にさせる条件の一つは、双方が対等な立場であるという意識が必要だといわれている。
双方の子どもたちが亡くなっているので、立場が違えども、4人は被害者という意味では対等だ。
双方がそれぞれの思いを正直に話し、そしてそれを黙って聴き合う。
時には感情をあらわにしながらも、双方は言葉を選び、双方を気遣い合う場面もあった。
原題は『Mass』。
「キリスト教のミサ」と「大量(殺人)」という意味を兼ねているのだろう。
映画では聖公会の教会の集会室が使われ、テーブル奥の十字架のキリスト像が、静かに4人の対話を見守っているように思えた。
映画の最後に流れたのは『聖歌集』の493番「愛のわざは」。
教会入り口にさりげなくあった「God with us」という言葉も印象に残った。
対立する世界情勢の中を生きる今の私たちに、「対話の可能性」を教えてくれる作品でもあった。
(菅 孝子・大分)
2023年4月号
空前の俳句ブームである。
私も2年前から詠み始めたが、俳句は五・七・五の17音の詩であるといわれる。
説明や報告ではなく読者に情景を思い浮かばせ詩情を感じてもらう。
聖公会の祈祷書の中にある詩編は韻を踏(ふ)み美しいものが多いが、語彙の含む背景を感じなくてはいけないのかもしれない。
聖霊とは何か、はっきり説明できないもの、聖なるもの、心に響くもの、その聖霊を詩編の中に感じなくてはいけないのではと思う。
Ⅱコリ4:18「わたしたちは目にみえるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」とあるが、俳句でも言葉で言い表せないものこそ大切なのではないか。
サン=テグジュペリ作「星の王子さま」の中でキツネは言う、「心で見なくちゃものごとは見えないってことさ。
かんじんなことは目に見えないんだよ。」と。
そして王子さまは言う、「砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているからだよ。」と。
「碧(あお)い星砂漠の底の泉照らす」砂漠の底に泉を見つける気持ちで日々暮らしたいものである。
平岡 加久子(熊本)
2023年3月号
久しぶりに高校時代の旧友たち2人と議論をすることとなった。
かっての美少年たちも、今や経験豊富なお歴々である。
石油依存の文明の時代から新しい文明の時代への転換が始まっているかどうかで意見が分かれた。
文明の転換は壮大な人間活動に依存しており、なかなか簡単ではないであろう。
それぞれの地域にある資源を地域の恵みとして活用して公平な自律分散社会に向かう必要があるという私の主張に対して、彼らは「そうはならない」と言う。
私の発言の中には、理想を求めたある価値観が入っているのに対して、彼らは現実認識で対抗する。
理想の社会を、神の国を思い描いてともに歩んでいきたいと思うのだが、クリスチャンではない彼らにイエス様の真を持ち出しても通じそうには思えない。
教会の外に出て、日本の社会の中で、神様の真をどのようにして伝えれば良いのであろうか?
一歩踏み出せなかった自分には確信(信仰)が足りないのではないかと自問自答である。
早瀬隆司 (長崎)
2023年2月号
タイトルに“荒野”という言葉があり、“荒野とは神と出会う場所”だという司祭の説明を思い出した。
「自分の経験の中での神との出会い」について書かなくてならないとは、なんと荷が重いこと!
初めての執筆。軽いテーマで書かせてください。
我が家に放置されていたグランドピアノを教会に引き取ってもらったのが3年以上前。
コロナ禍と重なり、2022年になって、多目的にピアノが使われるようになった。
先日、幼稚園の卒園児で東京交響楽団のコンサートマスターの水谷晃さんの演奏が園児向けに開かれた。
当教会のオルガニストがピアノ伴奏を担当。リハーサルを見学した。神様からの賜物のような演奏。
園児の心に響いただろう。
教会を地域に身近に感じてもらうために、音楽の果たす役割は大きいと思う。
他の教会の知人たちから、「教派を超えた音楽活動に地域の人にも参加してもらおう」という企画もある。
コンサートなどで初めて教会に来られた方たちと、どう関わっていくかも大きな課題だ。
(ナンシー 菅 孝子)
2023年1月号
今、降臨節の中でこの文章を書いている。
降誕日前後に読まれる福音書は、イエスの誕生にまつわるものが選ばれている。
わたしは聖書に、参加した礼拝で読まれた個所の年月日を記している。
マタイ一・十八以下や、ヨハネ一・一以下の枠外など、毎年同じ日付を記すたびに、一年の経過に気づかされる。
また、キリスト降誕を告げ知らせる個所には、預言者イザヤの言葉や、ダビデの町という表現があり、旧約聖書がこの時代の人々の中に根付いていることを改めて知らされる。
新約聖書が根付いているはずの今、わたしたちにもたらされるものは何だろうか。
そんな思いにふけってきた「荒野」から、今月で去ることになった。
またいつか、どこかで「声」を届ける日まで。
※ 三年間、執筆・ご協力いただいた教役者、信徒のみなさま、改めましてありがとうございました。
次号からは新広報部が担当いたします。
今後とも教区報「はばたく」をよろしくお願いいたします。
(前広報部長 モーセ 酒井 健)
2022年12月号
数年前、当時の同級生と久しぶりに会ったときに、彼女がこう言いました。
「あたし、クリスチャンちゃうけど、お葬式は教会がいい」。
クリスチャンではなくても、結婚式を教会(といってもホテルのチャペルですが)で行う友達は多かったのですが、葬儀を教会で、と言う人は初めてでした。
彼女によると、学校の関係で教会での葬儀に出ることがあり、「教会のお葬式は、讃美歌で明るく送り出してくれる感じが良いよね。自分のときもそうしてほしい」とのこと。
彼女のこの話を聞いたときには驚きましたが、私も同じような考えを持っています。
参列者みんなで歌う聖歌は、「神様のところへ行ってらっしゃい!」という気持ちにさせてくれ、悲しさや寂しさの中にも明るさをもって、故人を送り出すことができるのではないでしょうか。
(クララ 久保希世子)
2022年11月号
九月十九日、英国の女王エリザベス二世の国葬が行われました。
テレビや動画配信でご覧になった方も多いかと思います。
国葬では、コリントの信徒への手紙一 十五章二十─二十六節・五十三─五十八節、詩編四十二編一─七節、ヨハネによる福音書十四章一─六節に続き、カンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビーによる説教が行われました。
カンタベリー大主教のホームページで公開されている説教を読むと、信仰に生きることの大切さが伝わってきます。
それは、私たちが神さまへの信仰と奉仕を規範に生きるべきということ。
私たちは、自らの立場や野心をもとに行動しがちです。
また、よくある指導者のパターンとして、傲慢に生き死後忘れ去られると指摘します。
こうした姿は、自分中心の生き方そのもので、神さまはお望みになりません。
神さまへの信仰と奉仕に生きることの大切さを、この説教から感じました。
(パウロ 下村仁士)
2022年10月号
今年の長崎原爆忌、被爆者の証言ビデオを視聴した。
大けがを負った父親を大八車に乗せ、医師のもとへ連れて行ったものの、治療といえばのこぎりでの足の切断のみ。
ほどなく息を引き取った父親を荼毘に付した。無傷だった母親は、原爆症でその数日後に息を引き取った。
この方は言う。「母親の死はさすがに泣いた。でも、父の遺体を焼く時にはなぜか涙が出なかった。それを見て、大人が言うんです。親が死んで泣かんとは、あの子は鬼じゃ、と。」
恩師から、ずっと歌い続けなさいと渡された曲がある。
「約束」というその曲の少年が、まるでこの証言者のよう。
肉親の死に、泣く感情を失った子の心情とはと長年思いを巡らしてはいたが、証言を聞き腑に落ちたと同時に身震いした。
感情豊かな子どもから泣くことすら取り上げてしまう戦争。
愚かな行為によって子どもたちの笑顔を絶やすことのないよう、私たち大人が責任を持たなければいけない。
(ヴェロニカ 牛島 和美 )
2022年9月号
私が勤めている幼稚園で「聖霊」のことを子どもたちに伝えるとき、「聖霊降臨の日、家の中に集まっていた弟子たちのところに、突然激しい風が吹いた」ことを話します。
どんな音だったと思う?など、想像しながら過ごします。
また、聖霊の力(知恵と理解、判断と勇気、主を知る恵み、主を愛し、敬う心)が欲しいときは「聖霊、来てください」とお祈りすると良いことも話します。
後日、年長の子が園庭で「せいれいきてください!」と大声で言っていました。
なるほど風の強い日でした。
子どもたちの素直な行動に、「天の国はこのような者たちのものである」というイエスさまの言葉を思い出し感動します。
身の周りの自然に、神さまを感じることができる子どもたちから、いつも学んでいます。
生活のあちこちに、神さまはうれしいお知らせをちりばめられていることに気付きます。
子どもたちから問われている気がします。
「今日あなたは、どんな自然に神さまを感じましたか?」
(ヒルダ 浜生 牧恵)
2022年8月号
四月に赴任した長崎聖三一教会は有名な観光地に囲まれています。
観光中に教会に立ち寄る方もおられ、思わぬ出会いに恵まれています。
ある日曜日、夕の礼拝を終えたところに、一人の観光中の学生が礼拝堂に入ってきました。
聞くと教会に入るのは初めてだとのことです。
私が礼拝堂の説明をしていると、この方が「ぶっちゃけ、教会って何なんですか?」と質問してきました。
私は頭をフル回転させながら、「イエス・キリストが教えてくれたことを実現することで、この世界が平和になると信じている人が集まっているとこかな。」と答えました。
そして、いろんな活動の話をしながら、「イエス・キリストが願っていることをちょっとでも実現したいと考えてやっている」と説明しました。
一期一会の出会いによって根源的な問いを与えられ、この答えを考える日々を過ごしています。感謝です。
さて、あなたならこの問いにどう答えますか?
(司祭 バルナバ 牛島 幹夫)
2022年7月号
「神なんているのか。」
キリスト教に懐疑的な人たちから、このように聞かれたことがないだろうか。
あるいは、信仰につまずいたとき、自分自身に問うたことはないだろうか。
そして、その答えは「いる」か「いない」かの二択しかないと思っていないだろうか。
イエスは敵対する人々からの問いかけに対し、YESでもNOでもない返答をよくする。
また、質問に質問を返し、相手を黙らせることもある。
自分を陥れようとしてくる相手の意図を見透かし、相手の予想の斜め上をいく言葉を返すのだ。
そして、それを聞いた弟子たちや群衆は、イエスの言葉の中に神の存在を知ることになる。
このように、イエスの一見ひねくれた返答の中にこそ、神の言葉=真理が隠されているのではないか。
そして、それに気付き、分かち合い、伝えることこそ、わたしたち信徒の務めなのだと強く思う。
さて、冒頭の問いかけへのわたしの答えはこれだ。
「神のもとにわたしはいる。」
(モーセ 酒井 健)
2022年6月号
デイサービスでリハビリの仕事をしていると、高齢の利用者さんから「家族が亡くなって、ひとりぼっちで寂しい。」という話をときどき聞きます。
そんなときは「ここに来たら私たちがいるでしょう!」と言って励まします。
私は、ひとりで過ごす時間が好きではあるのですが、利用者さんが言う「ひとりぼっち」は別物。
もし自分も同じ状況になったらどうなるのか、と考えてみました。
私の周りにいてくれる家族や友達がいなくなったら…あれ、でも教会はずっとあるじゃないか。
いつもの教会には、同じ神様を信じる老若男女さまざまな仲間がいるし、生活の拠点が変わったとしても、その土地の教会でも自分が慣れ親しんだ祈祷書や聖歌集を使って礼拝しているじゃないか。
もしひとりでいることに寂しさを感じるようになったとしても、教会に通っていればどうにかなる、という結論に至りました。
寂しがっているかもしれない未来の私に言っておくことにします。
「教会があるでしょう!」
(クララ 久保希世子)
2022年5月号
先日、「博多駅の誕生と移転の歴史」という雑誌記事を執筆する機会に恵まれました。
博多駅についての史料を紐解くと、飯塚と直方を経由して黒崎や小倉へ向かう私鉄電車が乗り入れる構想があったことが記されています。
この構想を明治時代にまでさかのぼると、長崎街道に沿って折尾と飯塚を結ぶ予定だった路面電車にたどり着きます。
ところで、この路面電車が興味深いのは、聖公会の教会のすぐ近くに電停の建設が予定されていたことです。
直方の電停は直方キリスト教会のすぐ横に、飯塚の電停は、かつての飯塚聖パウロ教会の近くに建設される予定でした。
長崎街道は、様々な文化を伝えてきました。
私たちの信仰も、この道を通って広まっていきました。
そんな歴史を振り返ることができれば、と思います。
そして直方と言えば、直方キリスト教会の塚本祐子先生が司祭按手を受けられました。
新たな司祭が神さまから与えられた喜びに感謝です。
(パウロ 下村 仁士)
2022年4月号
春は芽吹きの時、自然界も人の心もざわつくものだ。
新年度を迎え、生活する場所や環境が変わった方もあるだろう。
転居や同居人の増減は鬱になる大きな要因の一つと言われている。
仲間や心の故郷を手放さず、たまに息抜きできる方法を持ちながら、ゆっくり新天地に馴染んでほしい。
思い出すのは、離島の別れの風景。
フェリーからたなびく色とりどりの紙テープやブラスバンドの演奏。
離岸するフェリーの汽笛がこの時期だけは長く鳴らされ、町にも聞こえてくる。
島で得た親友を見送った時、港の喧騒を離れ対岸で一人、傘をさして立ちフェリーを見つめた。
親友は甲板から私を見つけ、お互い大声で泣きながら、言葉にならない別れの言葉を叫び合ったのも今は懐かしい。
近くに引っ越すことになったよと連絡した時、今度は喜びの叫びをあげてくれた親友に早速会いに行こう。
そして新しい町の新しい空気をゆっくり吸い込みながら、私も新しい芽を芽吹かせたい。
(ヴェロニカ 牛島和美)
2022年3月号
「こころの風景」と聞いてどんな景色を思い浮かべますか?
わたしがこの時期思い出す風景は、以前勤めていた幼稚園の送迎バスから見る、久留米の街中です。
いつもと変わらない建物の間に、梅→桃→桜と花が咲いていく様子です。
筑後川の菜の花も明るい色を加えます。
この「春のリレー」を毎年心待ちにしていました。
「さあ咲きなさい」と誰に言われるでもなく、褒めてもらおうというのでもなく、自分の使命を淡々と果たしていく花々の姿や香りに、元気をもらっていました。
ある時、花壇の花を一緒に見ていた方に「聖書の中の『あなたがたのために』を『あなたのために』と読み替えてみると、恵みに対して違った感じ方が出来るよ」と教わったことがあります。
そんな思いで周りを見回すと、神さまが『わたし』のために用意してくださっている恵みの何と多いことでしょう!
日常の疲れの中でも、神さまからの恵みを受け止められる余裕を大切にしたいものです。
(ヒルダ 浜生 牧恵 )
2022年2月号
昨年末、南アフリカのデズモンド・ツツ大主教が逝去されました。
アパルトヘイト政策による人種差別と闘いノーベル平和賞を受賞したツツ大主教の言葉にあらためて接する機会となりました。
ツツ大主教が文章を書いた「かみさまのゆめ」という絵本があります。
彼はこの絵本の中で「わたしたち ひとりひとりの なかには かみさまの こころの かけらが あるんだよ。」と言っています。
ツツ大主教は、全ての人が神の似姿として創造されていること、そして全ての人が神の愛する子どもであるということを、その歩みを通して示しておられたのだと感じます。
降誕後第一主日、その特祷で「全能の神よ、あなたは驚くべきみ業によりわたしたちをみかたちに似せて造られ、さらに驚くべきみ業により、み子イエス・キリストによって、その似姿を回復してくださいました。」と祈りました。
創造のみ業を回復するイエスの歩みを共に歩んでいきたい、そう願っています。
(司祭 バルナバ 牛島幹夫)
2022年1月号
一年の計は元旦にあり、というがこれが難しい。
教会暦ではすでに年が変わっている。
それも、クリスマスではなく、クリスマスの準備を始める日に年が変わっている。
キリスト教で最も大切にされる日は、誕生を祝うクリスマスではなく、死と復活を記念するイースターである。
しかもそれは固定された日ではなく、毎年変わる。
教会生活を送っていると、世間一般のカレンダーとは異なる感覚を持つようになる。
キリスト教徒がマイノリティであるこの国では、さぞかし奇異に映ることだろうが、逆に考えると、この国で暮らすキリスト者の特権なのかもしれない。
わたしにとって、「計」となる日はいくつもある。
それは、自分にとって大切な日。
教会暦にも日本の暦にもない特別な日もある。
その日を大切にして、思いを新たにする。
そしてまた、一年が過ぎる。
それぞれの思いの中で、大切な日を「計」とする。
難しいことではない。
一年の計は、簡単である。
(モーセ 酒井 健)
2021年12月号
教会のクリスマスといえば、何を思い浮かべますか。
私は、ハレルヤコーラスです。
私の母教会である大阪の石橋聖トマス教会では、イブ礼拝の最後にハレルヤコーラスを歌います。
はじめはろうそくの灯りの中で静かに礼拝し、最後に照明をつけて明るくハレルヤコーラスを歌う、この最後の歌が私は毎年楽しみでした。
ただ、幼い頃は楽しく歌うための準備が必要で…クリスマスが近づくと礼拝後に練習するのですが、英語の歌詞が読めないので、おばちゃんたちが歌っているのをなんとなく覚えました。
また、楽譜には全パートが載っているので、どこを歌っているのかわからず、近くの大人を見て「あ!ページめくった!」と確認していました。
毎年この練習期間を経て、当日〝いっちょまえに〟歌い、そして年々上達していったのでした。
今年もコロナ禍でのクリスマス。
それぞれがイメージするクリスマス礼拝はできないかもしれませんが、お祝いする気持ちは変わりません。
(クララ 久保希世子)
2021年11月号
「はばたく」は、六一〇号になりました。
さて、六一〇ハップをご存知でしょうか。
「あっ、そんな入浴剤あったよね」と、思い出した方も多いのではないでしょうか。
六一〇ハップをお風呂に入れると、硫黄臭とともにお湯が白濁します。
温泉の雰囲気が味わえ、しかも抜群の美肌効果。
愛用した女優も多かったといいます。
ところがこの六一〇ハップ、二〇〇八年に生産・販売を終了してしまいました。
理由は、この入浴剤が自死目的で乱用されたため。
お風呂を楽しくし、いのちを豊かにするはずの入浴剤が、いのちを損なう行為の影響で、売れなくなってしまいました。
いのちを大切にすることは、いのちを損なう行為を否定するだけではありません。
私たちに神さまから与えられた賜物を、正しく用いることも、いのちを大切にすることです。
もちろん入浴剤も。
神さまの賜物は様々ですが、その賜物を正しく用い、み心にかなうことができるように、信仰生活を送っていきましょう。
(パウロ 下村仁士)
2021年10月号
ライフワークの「金子みすゞを歌で伝える」活動は、コロナ禍で止まったまま。
歌う事を忌み嫌う今の状況は、私自身を否定されているようで苦しく、私は今「荒野」に追いやられているようだ。
誰かに届けたいと願って歌ってきたみすゞの詩を、今、自分のために読み返している。
『繭と墓』蚕は繭にはいります、きうくつさうなあの繭に。
/けれど蚕はうれしかろ、蝶々になつて飛べるのよ。
/人はお墓へはいります、暗いさみしいあの墓へ。
/そしていい子は翅が生え、天使になつて飛べるのよ。
繭を破って出てくる成虫は、白くフワフワとした蝶々のようで、空を飛べない。
ましてや養蚕では人間が絹糸を取るために利用され、繭の中で命を終える。
人間も、死ぬと暗い寂しい墓に入れられる。
けれどみすゞは、死んでいった蚕を蝶々にして空へ羽ばたかせ、死んだ人も生きた間に出会った人の心に思い出という白い軌跡を残しながら天へ上げてくれる。
この詩を、急逝した友へ捧ぐ。
(牛島和美)
2021年9月号
この夏、オリンピックとパラリンピックが行われました。
開催の是非には様々な意見が有るかと思います。
しかし、やはり選手の皆さんの努力や勝負に臨む精神力に、感動と励ましをもらいました。
意志力に関係のある脳の部分は前頭葉で、人間の脳の約三十%を占めています。
人間に近いチンパンジーでも、十%位しかないとのことです。
思考や行動のコントロールを司る前頭葉は、まさに人間らしく生きるために働いています。
この話を聞いた時、十字のしるしをいただく洗礼式の一場面を思い出しました。
「人間らしく生きなさい」と神様は願っていると感じたからです。
人間らしさとは何でしょうか。
人それぞれだとは思いますが、「自分を大事にすること、周りの人も自然も自分と同じように大事だと思うこと」だ
とわたしは思います。
地球上の知り得ない人たちと一緒に、応援したり励ましたり感動したりした、平和を願う夏でした。
(ヒルダ 浜生 牧恵)
2021年8月号
「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」( Ⅰ コリ一・二十五)
この一節を読んで、まず神の偉大さを改めて知らされる。
しかし、よく読んでみると、神にも「愚かさ」「弱さ」があると著者パウロは記している。
全知全能とも言われるわたしたちの神は、畏れ多く、近寄りがたい存在であると同時に、常にそばに寄り添ってくださる存在でもある。
そして、わたしたちの祈りや歌を、喜びをもって受け入れてくださる存在である。
寄り添うこと、受け入れることは、愚かさや弱さを認めた上で、はじめて生まれる「優しさ」や「慈しみ」という感情によって実現される。
それを教えるために、人の子=イエス・キリストをわたしたちに与えてくださったのではないか。
わたしたちが「愛」というものを知るために。
「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創一・二十七)
愚かさも、弱さも、神が分け与えてくださった、大切な賜物だったのだ。
(モーセ 酒井 健)
2021年7月号
私は、音楽が好きです。
とくに好きなのは日本のロック。
数カ月に一回はライブハウスで騒ぎ、夏には野外の音楽フェスに行くことが、私の楽しみです。
しかしこのコロナ禍で、このようなイベントの多くは中止になってしまいました。
日常生活における楽しみが一つ減り、物足りない日々が続いています。
そんなある日、部屋の掃除をしていると、鼻歌で聖歌を歌っている自分がいました。
考えてみると、スマホにイヤホンをつないで大好きなバンドの曲を聴いてはいましたが、この約一年間で唯一、生で耳にした音楽は、オルガンや会衆の歌声による聖歌でした。
スマホを通してではなく生で触れた聖歌が、私が日常生活で足りないと思っているところを少し埋めてくれていたようです。
この原稿を書いているのは五月末。
新型コロナのワクチン接種が始まりました。
一日でも早くマスクを外して聖歌を歌うことができ、音楽フェスにも行くことができますように。
(クララ 久保希世子)
2021年6月号
四月二十三日、人権問題担当者主催の「難民と共に生きる」教会オンラインセミナーに参加しました。
このセミナーの背景には、政府が今年二月に閣議決定した、入管法改定案があります。
日本政府は難民に対して異質な政策を取っており、難民認定率はわずか〇・二五%。日本政府は、難民認定制度を改善するのではなく、難民申請者の強制送還を容易にしようとしています。
この動きに対して、日本聖公会も反対しています。
この問題に対して、私たちはどう関わり、行動すればよいのでしょうか。
私たちにとって重要なことに「すべての人にイエス様の福音を宣べ伝えること」があります。
入管法改定の問題では、福音を「人権と正義」と言い換えてもよいと思われます。
私たちには、人権と正義の実現を常に意識して、この問題に関わり行動することが期待されています。
私たちの信仰生活が、人権と正義の道へと進んでいきますように。
(パウロ 下村 仁士)
2021年5月号
先震災から十年を前にした二月、東北地方は大きな余震に見舞われた。
定期的に連絡を取り合う友にお見舞いの電話をすると、今年に入ってお亡くなりになった方がいらっしゃることが分かった。
彼女とは私が初めて被災地を訪ねた際に知り合い、親交を深めた。
私にとっては、年に一度の帰省先の祖父母といった感覚にもなっていた。
高齢のご夫婦ゆえ、毎年再会を約束するたびに「もしかしてお会いするのはこれが最後になるかも」と、うっすらと思ったりもしていたが、実際にそうなるととてつもなく寂しく、昨年コロナの影響で訪問できなかった悔しさが一層増してしまう。
開催中の信徒研修会で「死について」の回があり、キューブラー・ロス著「ダギーへの手紙」が紹介された。
この世でやらなければいけないことを全部できたら、痛いことも、怖がることも、悩むこともなく、体を脱ぎ捨て自由になれる…彼女の魂が今、蝶のように自由に舞う様を想いながら「神共にいまして」を献唱した。
(ヴェロニカ 牛島和美 )
2021年4月号
先日、卒園間近の保護者の方から聞いた話です。
「ぼく、大人になってお父さんになったら、子どもをO幼稚園に入れるんだ。そしたらまきえ先生のクラスが良いな。」(二十年くらい後もクラス担任をしているのかと思うとぞっとしますが)とても嬉しい言葉でした。
この春、日本のあちこちで、このような子どもたちの会話があったことと思います。
またそう願います。
不安の中で歩んだ一年でした。
先生の顔半分がマスクに隠れていたり手も繋げなかったりする異常な生活が続いています。
そんな中でも子どもたちが、幸せを感じ希望を持って生活していたことが何より嬉しかったです。
子どもたちのひたむきな姿にいつも力をもらいます。
私たちは不安にとらわれたとき、自分の軸を失い立つことが出来ません。
しかし、湖の上を歩いたペトロさんのように、イエス様を見ることで再び歩き出せることも知っています。
不安を感じていることを受け止めながらも、光を見つめて進んでいきたいと思います。
(ヒルダ 浜生 牧恵)
2021年3月号
大斎節第一主日の福音書聖書日課は、決まって荒野での誘惑の場面である。
このコーナーで、悪魔に執筆を依頼すれば、誘惑の言葉で埋め尽くされるに違いない。
誘惑というと、どうしても世俗的な快楽を思い浮かべてしまうが、悪魔のそれは「神様を裏切れ」という、とても重いものである。
荒野での日々は四十日間続いた。そして、キリストは悪魔の誘惑に打ち勝ち、宣教の旅を始めるのである。
ものの本によると、四十日間というのは「新たな始まりに向けた準備期間を象徴する数」とある。
ここで、わたしたちが、四十日間荒野に放り出されることを想像してみよう。
荒野のイメージは、人それぞれあるだろうが、決して居心地のいい場所ではない、というのは共通しているところだと思う。
そんな場所で、わたしたちはいったい何を思うのであろうか。
新たなる何かを感じることができるだろうか。
そんなことを思いながら、今年の大斎節を分かち合いたい。
(モーセ 酒井 健)
2021年2月号
結婚する前のことです。
ある書家の方から妻に、「結婚のお祝いに書を送りたいので何かリクエストする言葉はないか?」との声が届きました。
相談された私は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」(マルコ一章十一)という言葉をお願いしました。
それから十六年ずっと、その書を家に飾っています。
顕現後第一主日に、主日の福音でこの言葉が読まれました。
折しも、新年の大寒波で交通が麻痺。
新型コロナウイルスの感染者急増で、緊急事態宣言が再発令されるなど、行く先に不安を感じさせる出来事が続く中でした。
しかし、主日の福音にこの言葉を聞き、イエスの歩みには、神の愛の言葉が先導していることを知りました。
新型コロナウイルスの猛威は教会の歩みにも影を落としています。
しかし、教会の歩みの真ん中には常にイエスがいます。
「あなたはわたしの愛する子」という神の声がわたしたちを導いていると信じて歩みたいものです。
(司祭 バルナバ 牛島幹夫 )
2021年1月号
あけましておめでとうございます。本年も広報部をどうぞよろしくお願いいたします。
みなさま、お正月はどのようにお過ごしでしょうか。
教会の暦では、一月一日は主イエス命名の日ですね。
私は、聖歌二二三番を歌うと「ああ、年が明けたなあ」という気持ちになります。
一節でいうと、二段目の「喜び迎えよ」と徐々に音が高くなっていくところは、年が明ける瞬間へわくわくしながらのカウントダウン、そして「年のはじめ」でパアーっと明るい気持ちで新年を迎える、というイメージを持っています。
しかし改めて聖歌集を見ていると、一段目の「救いの名前を 今日受けた主イエス」の部分でもう年が明けていて、イエスと名付けられたことをお祝いしている‼ということに気づきました…。
でも、解釈は人それぞれでも良いのではないかと思っているので、イエスと名付けられたお祝いと、パアーっと新年を明るく迎える気持ちで、私は今年もこの聖歌を歌いたいと思います。
(クララ 久保希世子) |