教区報「はばたく」に掲載のコラム

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2020年バックナンバー

2020年12月号

 近頃「人新世(ひとしんせい)」という言葉が話題になっています。
人新世はもともと地質学の用語ですが、この言葉は人類の活動が環境を大きく破壊してしまい、地層にまで影響を及ぼしていることを意味します。

 例えば、新型コロナウイルスのような未知の感染症への直面、極端な気候変動による重大災害の多発、資源の枯渇が影響した貧富の格差の拡大など、人類がもたらした危機が、人新世という言葉に象徴されています。

 ところで、祈祷書百十九頁には、産物と産業のための祈祷があります。
そこには、神さまは「人のために必要な産物を備えてくださいます」と書かれていますが、そこからは、神さまは不必要な産物は備えてくださらないことも伝わってきます。

 人新世の危機の拡大を防ぐためには、資源制約を踏まえ、不必要な産物を抑制し、すべての人に必要な産物が備わる社会の実現が必要です。
私たちも、こうした社会を、信仰生活を通じて求めていきましょう。

(パウロ 下村 仁士)


2020年11月号

 振り返ると、この欄に文章を掲載させていただく時期に十一月号が続くのは偶然の不思議。

というのも、毎年この時期には恒例の東北訪問の計画を立て、心はすでにかの地へ向かっている、という件をいつも書いているからだ。

 その訪問も、今年はコロナ禍で見送ることにした。
毎年訪ねる先には高齢者や基礎疾患のある方が多いからだ。

 感染防止対策として在宅勤務やWEB会議が取り入れられ、呑み会も画面越し。
目新しさもある一方、やっぱり何だか味気ない。
面と向き合い握手をし、時に抱き合い、涙を流す。
時には語気を荒げ、問答を交わす。
人と人との間に「熱」が起こる。
しかし、画面越しではその「熱」が今一つ伝わらない気がするのは、相手の顔を見てはいるものの、相手の目を見ていないからではなかろうか。

 障がいがある人や遠隔地に住む人の参画を容易にするアイテムとしてはもっと早くに利用すべきだったシステムだが、音声だけでなくやはり目を見、触れ、心と言葉を受け渡したい。

(ヴェロニカ 牛島 和美)

2020年10月号

 九月に台風が続けて来ました。
各地で被害に遭われた方のことをお祈りしています。

 台風が過ぎると、勤務先の園児たちが登園途中に拾った枝や葉、松ぼっくり等を嬉しそうに見せてくれます。
一緒に小さなコーナーを作り飾りました。
次に登園してきた子も持って来たものをそのコーナーに置いたり、他の子も「これ、ここがおもしろい」と手に取って観察したりしていました。
自分も見つけたい!と園庭で落ち葉を拾う子もいます。

 大人が生活の中で簡単に見過ごすものでも、子どもたちには不思議さと驚きが詰まった宝物です(特に神様の創られた自然物)。
まだ緑色の松ぼっくりは「ここ、べたべたする」との子どもの発見に、どこからべたべたが出てくるか私もじっくり観察したくなりました。
知った気になって感動しないでいる自分を省みる毎日です。

 天の国はこのような者たちのものであると言われたイエス様が「生活の中に一つひとつ感動 と喜びがあるよ。
それを味わって過ごすことを神様は喜ばれるよ。」と応援してくれているように感じます。

(ヒルダ 浜生 牧恵)

2020年9月号

 主イエス変容の日の特祷の中に、「揺れ動くこの世から救い」というフレーズがある。
現行の祈祷書は一九九〇年代初頭発行なので、ここ三十年ほど用いられているフレーズである。
それまで用いられてきた一九五九年版には、このフレーズはない。

文語体から口語体への改訂の際に「この世の心づかいを離れて」というものから変更されている。

 教会生活は、時代に合わせて変わっていくものである。

ひるがえって考えてみると、一九九〇年前後、世界情勢は大きく変化した。
そのような時期に、「揺れ動く~」というフレーズが用いられたのは偶然ではあるまい。

 しかし、今年ほど身に染みて「揺れ動くこの世」を実感した年もそうそうないだろう。
目に見えないものへの不安。
聖書を読んでも、それを払拭することはできない。
しかしわたしたちは、救いを求めることができる存在を知っている。

 最高の賜物を、
今こそ感じたい

(モーセ 酒井 健)

2020年8月号

 四月と五月、福岡聖パウロ教会では教役者と家族で主日礼拝を守ってきた。
礼拝に出席できない信徒へメッセージを伝えるため、主日ごとのメッセージを文書で郵送すると共に、インターネットを利用して動画でもメッセージを発信した。
すると、病気のため長い間、礼拝に出席出来ていなかった方から「ずっと礼拝に行けなかったので、久しぶりに先生の説教を聞けて嬉しい」との感想をいただいた。

インターネットを使った説教動画配信は新型コロナウイルス感染症への対応として行ったことだったが、実はずっと前からそれを必要としている人がいたということに気づかされた時だった。

 六月に入り、公開での礼拝が再開して以降も毎週土曜の夜に主日の福音書についてのメッセージを録画し、YouTube で公開している。
自分にとっての動画公開の一番の効用は、自分が話す姿を後から見返すようになったこと。
自分が話す姿を視聴し、自分と対話する時となっている。
思わぬ恵みが与えられている。

(司祭 バルナバ 牛島幹夫)

2020年7月号

 私が所属する福岡聖パウロ教会は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、四・五月の礼拝を中止しました。
学生の頃、部活や受験を理由に教会に行かない時期はありましたが、行けないのは初めてのことでした。

私は理学療法士として働いており、この状況の中、以前勤めていた病院での出来事を思い出しました。
ある日患者さんの病室へ行くと「リハビリには行かんよ。」と一言。
その方は腰痛を理由にリハビリに行きたくないと言うことはあったのですが、その日の理由は「神父様が来るから。」でした。
その時刻まではまだ一時間ほどあったのですが、入院中という教会に行けない状況での神父様の訪問が待ち遠しく、リハビリどころではなかったようです。

 今回の礼拝中止期間中は、牛島司祭からのお手紙とフェイスブックでの礼拝やメッセージの配信がありました。
教会に行けなくても神様はそばにいてくださる。
分かってはいるのですが、手紙や配信によって、改めて教会や神様を近くに感じることができました。
(久保 希世子)

2020年6月号

 新型コロナウイルス感染症は、私たちの日常に大きな影響を及ぼしています。
全世界的に人々の行動が制限されているのは、第二次世界大戦以来のことともいいます。

 そんななか、いま私たちができることを考えてみました。

 ひとつは、祈ること。
医療従事者、私たちの生活を維持するために働く人々、病気の人々、亡くなられた人々の魂とその家族のために祈るのはもちろん、孤独に直面する人々が社会と再びつながるように、私たちの社会がひとつになるように、祈ることが大切と思います。

 いまひとつは、神さまが聖書を通して語られるみ言葉を聞くこと。
私たちが直面している試練は、必ず乗り越えることができると、聖書は語っています。

神さまは私たちを励まし、力を与えてくださっています。
神さまの教えを行動に移すことも大事です。
神さまは隣人を愛するように教えられますが、感染症を他者に感染させないための行動は、隣人を愛する行動そのものです。

 私たちの信仰生活が、新型コロナウイルス感染症の収束につながることを願っています。

(パウロ 下村仁士 )

2020年5月号

 新型コロナウイルスの脅威が拡大を続けている。
り患した方々の回復と、亡くなった人々の魂の平安を祈るとともに、対策にあたる医療従事者らに敬意を表したい。

 私たちは、見えないものに対して不安感を持つ。
それを少しでも解消したくて、何かしらの情報を加えて可視化したくなる。
様々な情報と共にデマも加わり、不安が助長される。疑う。恐れる。心が荒む。
咳をするだけで相手を攻撃してしまうほど、人間は弱く、脆い。
この心情は、震災以降放射能と向き合い生活する地域の人々のそれに重なってくる。
色も、臭いもない恐怖の中で生活せざるを得ない人々の、押しつぶされそうな心の様をほんの少しではあるが共有した気がした。

 見えない神を信じる私たちは、見えない恐怖にどう対峙すれば良いのだろうか。
この病原体の正体や治療方法は刻々と解き明かされていくはずだ。
私たちは、日々更新される情報をもとに、日常生活の中で恐れつつも正確な判断をしていきたい。

 今こそ祈ろう。
(ヴェロニカ 牛島 和美)

2020年4月号

 二月のレクイエムに私は参加できませんでしたが、説教者の小林司祭が「昭和四十七年の教区報」を引用され、その教区報が巡り巡って私の手元にやって来ました。
説教の内容は、廣石司祭がされていた「信徒研修と求道者のための通信教育」を基に私たちが出来ること、するべきことのお話だったとお聞きしました。

 その教区報のページをめくる度、懐かしいお名前や今九州教区を支えておられる方の、若い頃(あら、失礼でしょうか)の記事をたくさん見つけ、楽しく読ませていただきました。

多くの方々の思いと祈りと共に、教区の歩みが進んできたことを改めて感じます。
また、たくさんの行事の報告と案内が載っており、当時のスタッフの方々のご苦労に頭が下がります。

 今の教区報も五十年後、その時九州教区に繫がっている人たちと勇気や希望を分かち合える、そんな存在になれるのかと思うとわくわくしてきました。
信仰の先輩方からいただいているものをもう一度見つめ直し、味わって自分のものとし、次の世代の方々に手渡して行きたいと思います。

(ヒルダ 浜生 牧恵)

2020年3月号

 春は出会いの季節である。でもその前に、別れがあったりする。
出会いの数だけ別れがあることが辛かった。
新しく出会った人とも、いつか別れる時が来るんだろうな。
だったら出会いはもういらない。
深く付き合うことも辛い。そんな時期があった。

聖書の中で、もっとも辛い別れは、キリストの磔刑である。
救世主、師と仰いだ方が、理不尽で残酷な目に遭う場面は、二千年の時を経た私たちにもショックである。
しかしキリストはそこから復活された。
二度と会えないと思った存在が、永遠にそばにいてくれる特別な存在になったのだ。
そして私たちは、永遠の別れなど、本当はないということを教えられたのかもしれない。

毎日のように会う人たちは大切だ。
でも、一旦お別れしていてなかなか会えない人との邂逅は、また特別である。
出会いは始まり。そして、別れも特別な出会いの始まりなのかもしれない。

春は出会いの季節である。そして、永遠の出会いへの始まりの季節である。
(モーセ 酒井健)

※今年の本欄は広報部員が月ごとに交代で担当します。

2020年2月号

 クリスマス、主イエス命名の日と年末年始に礼拝が続く中で、普段の主日礼拝では会えない人に多く出会うことができた。

新たな出会い、久しぶりの再会。それがどのようなものであれ、教会生活の中で出会いが与えられることは大きな喜びである。

教会で起こる出会いは、キリストを媒介としたもの。
初めて出会う人であっても、キリストによってつながることができるのが、教会における恵みである。
与えられた出会いをどれだけ大切にしていくことができるか。
それが、伝道の力となるのだと思う。

さて、この2月号から、新しい広報部が3年の任期で教区報の編集を担当することになった。
「はばたく」の紙面がキリストを媒介とした出会いの場となるよう、編集部一同で頑張っていきたい。どうぞ、よろしくお願いいたします。

(広報部長、司祭牛島幹夫)

※今年の本欄は広報部員が月ごとに交代で担当します。

2020年1月号

 医療の学会での講演で時折、「think globally, act locally」(地球規模で考え、足元で行動せよ)という言葉に出会う。
誰が言い出した言葉なのかはわからなかったが、一九六〇─七〇年代の市民活動で普及し、最近では環境問題を語るうえで使われることが多いようだ。
小児科医である私が働く上で解釈すると、「視野を広く医学の知識を蓄えつつ、目の前の子供をケアする」というところだろうか。
半年前に、少子高齢化が顕著な地方の病院の小さな部署に転勤したこともあるが、日々の生活に追われているとついつい視野が狭くなっていることを実感し、自戒を込めて思い起こす言葉である。
つい先日、襲撃され亡くなった、アフガニスタンで活動していた中村哲氏もこのメッセージを伝えていたそうだ。
マタイによる福音書でも「はっきり言っておく。私の兄弟(姉妹)であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」とある。
聖書を読み考えることはthink groballyになるのではと思う。
(鶴澤礼実)

 

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